炎とナイフ

 薄く雪化粧された下生えに鮮血が染みてゆく。首を切られた兎の死骸からとめどなく血は滴る。脚を持たれてまっさかさまにぶら下げられた兎は血抜きが終わると毛皮を剥がされた。慣れた者がやれば脚首からきれいにつるんと皮を脱がすことができる。腹を裂いて内臓を出し、肋骨の奥から心臓と肺を掻き取る。頭を落とした真っ赤な肉の塊はもう珍しくもない食料としての肉の姿で、割木の上で適当な大きさに切り分けられた。

「血なまぐさくてかなわんぞ」

 焚き火のそばで寝そべるシュナウツが髭をひくひく蠢かしながら文句を言う。

 疎らな枯れ枝ごしの曇天から小さな雪片がときおり落ちてくる。

「野生の記憶を懐かしんでくれよ」

 骨付き肉の焼ける匂いがしてくれば、シュナウツさんも大人しく腹を空かせて涎を垂らすしかない。

 親切な特務役人が猟銃を持たせてくれたものだから、塩と胡椒も忘れずに持参している。あの役人は冗談と酔狂のつもりだったのかもしれないが、現実にルシオ・モニークはクノヘン山脈の南東部の山中で野兎を調理中だ。

「ここまでは運が良かったな。シュナウツさん、あんたの運かな」

 ヴィオロン首都の〈赤い鉄線〉領事館に着いてすぐ、ルシオ・モニーク軍曹は大型三輪ごとした。〈赤い鉄線〉の領事には特務の書類を掲げて黙認を取り付けたが、ヴィオロン当局にとってのルシオ・モニーク軍曹は、無許可で国土を徘徊しようとする他国軍人である。

 消失といっても魔心術を使えたわけではない。

「わしに生まれ持った運などあるか。わしは生涯を努力一本で生きてきた男ぞ。おぬしの運はどうなんぞ」

「俺は良くも悪くもないな」

 先に焼けた骨付き肉をシュナウツにやってルシオは言った。「良くても悪くても最後に帳尻の合わなかったことはないって程度だ」

 あと少し東に進みながら山を登ると湖に到達し、その湖畔に〈碧翼城〉がある。

 移動を夜に限ったとはいえ、ここまで咎めを受けずに侵入できたのは、偵察任務を多くこなしていた頃の経験と技能によるところが大きい。

 首まで泥まみれで命からがら逃げ帰った偵察任務の悲惨な記憶も、時が経てば何らかの形で帳尻は合うものだ。

「がつがつして骨を飲むなよ? 喉に刺さるから」

「わしは犬ではないのぞ」

 いや、犬だろ。

 食らいついた肉に夢中なシュナウツのずれた片眼鏡を直してやってから、ルシオは杉の大木の根元まで退がってナイフの手入れを始めた。

「ここまでは最短の距離と時間で来られた。それでも最悪の結果までに間に合わなかったら、そのときは仕方がない。それだっていつかはどうにか別の形で埋め合わせのあるものなんだ」

「おぬしは、ときおり薄ら寒いことを言う男ぞ」

「薄ら寒い?」

「そして自覚もない。何とも気色の悪い男ぞな」

「おいちょっと待てシュナウツさん。あんたと俺と出会って今日までそこそこ仲良くやってきたじゃねえか」

「否定はしとらん。分析ぞ。研究は魔心師の性分ぞなもし」

 分析されるほど俺は面白い人間でもないと思うがな、と独りごちながらルシオは刃にべったりと付いた兎の血脂を根雪の塊で洗い落とした。さらに小瓶の酒を染ませた車体整備用のボロ布で拭く。

 荒天よりも先に暮色を増した森の闇と焚き火の明かりが、刃をよく映る鏡に変えていた。

「おぬしは魔心術の心得も感性もないくせに、わしを見ても大して驚かんしな。一連の出来事もどこか他人事のように受け止めて動いているように見えるのぞ。いい齢をしとるせいかもしらんが、にしても今の薄情な台詞はどうなんぞ」

 齢のことは言うなよ。

「アイヴィが生きてるか死んでるかわからないのは事実だろ」

「人間は自分の生きる世界の変化や価値観への攻撃を恐れるものだが、おぬしには変化に対する根元的な恐怖と動揺がない」

「シュナウツさん。食うか喋るかどっちかにしろよ」

 シュナウツは骨付き肉を前脚ではっしと押さえ、ぐるぐる唸った。

「おぬしには失うことへの恐怖がないんぞ。いま目の前にあるものとて、後ろへ流れていってしまえばそれっきり、執着もせずに忘れるだけぞ」

 ルシオは刃に映った中年の男の顔を見つめた。

 〈あまりにも多くの死と失望〉を、状況と時間が押し流していくままに見送って捨ててきた男の顔、か。これがそうなのか。

 ルシオはちょっと考えて、雑嚢に手を伸ばした。

 アイヴィ・ダンテスが無事だったとして、無精髭の万年軍曹を見ても近所の元肉屋だとは判らないかもしれない。ナイフの表面を鏡がわりに剃刀を当てた。

 同じことを戦友のトニオがよく野営地でやっていたのを思い出す。

「俺だって今でも悪夢くらい見る。ただ、それを打ち明けられる人間がいないってだけだ」

 いないというか、つくらない。

 つくらないというか、つくれない。

 それは、つくる方法を知らないという意味でもあり、もともと不可能という意味もある。

 いつも、どこにいてもルシオ・モニークは異端の余所者だった。軍隊に居場所はあったし、部下も多くいたが、仲間と言える者はごく僅かで、今は一人も残っていない。

「シュナウツさんなら聞いてくれるのか?」

 肉にかぶりついたままでシュナウツは答えた。

「後学のためにぞ」

 友人として聞いてくれるわけじゃないってことだ。

 刃先が曲線になった大型の軍用ナイフは、ルシオが初めて貯めた軍の給料で特注したものだった。

 ルシオはナイフを翳し、刃に反射する炎の光をシュナウツの片眼鏡にちらちらと当てた。

「こいつは、俺が戦友のトニオを殺したナイフだ」

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