狂王

 連れて来られたのは城の礼拝堂だった。

 だがアイヴィはこの礼拝堂が造られたままに美麗だった頃の姿を見たことはない。父であるダント・テスオロスは王座に着いてすぐ、ヴィオロンのすべての城の礼拝堂を黒く塗り込めた。〈神〉の世界を描く金細工の天井も、天使の象嵌された壁も、聖言の刻まれた祭壇も、何もかもすべてが真っ黒く塗られた。

 黒一色のがらんどうの左右には、白亜の大理石の彫像が列をなしている。優美な中性の人間を象った像。それは天使像に似ているが、ダント・テスオロスの意図したのは、堕天使である。

 ダント・テスオロスは魔心師を何人も雇って、堕天使像をつくらせた。

 〈万象教〉への悪意を象徴する礼拝堂の祭壇下に、アイヴィは突き放されて転がった。

 礼拝堂には〈碧翼城〉に潜伏する兄弟姉妹が集っていた。帝国崩壊と〈赤い鉄線〉占領下の受難を経てきた兄弟姉妹の瞳には、何を目撃しても無言をつらぬく強さが育っている。

 無駄な時を使わずにエディットは聖言の詠唱を始めさせた。

 完唱までは五日を要する。ここにいる上級司祭の中でも聖言術の使い手は十五人ほどだ。最初にアイヴィを囲んだのは五人だった。交代制をとるらしい。

 後ろ手を縄で縛られているが、檻の中ではない。五日もあれば隙を見つけることができないか、とアイヴィは考えていた。が、疲労と魔心に消耗した身体はここまで歩いてくるだけですでに限界を感じている。

「今は昼か、夜か?」

 とアイヴィは誰にともなく訊いた。天窓も黒く塗られた礼拝堂では、昼夜の区別がつかない。

「真夜中です」

 トリが詠唱の輪の向こうから答えた。

 耳を澄ませれば聖言の響きの外側に、牢の中でいつも聞こえてきたあの叫び声がちぎれちぎれに混じってくる。あれは真夜中に出歩き彷徨う亡霊の叫びと呻きだったのか。

 遠ざかり、そして近付いてくる。

 哀れを誘う狂人の叫びが。

 場をわきまえず、空気を乱す、芝居がかった滑稽さで。

 神妙で荘重な儀式をうちこわす、不意打ちの雷鳴のように。


「根こそぎにせよ! 神を騙る不埒者どもを! 万象は不正解! 正解は地下深くの氷の中だ! 正解、正解、正解は凍りつく!!」


 白髪を振り乱した巨躯の老人が、礼拝堂の入口に現れた。

 老人は皺に埋もれて落ち窪んだ目を見開き、叫んだ。


「今、今、今こそは、氷詰めの大王を呼び覚ませ!!」


 狂王ダント・テスオロス——。

 〈碧翼城〉は、ダント・テスオロスに最も愛された城だ。城のまるごとが彼の研究のための書斎だった。王であるあいだもダント・テスオロスは〈碧翼城〉に引き籠って魔心の研究をつづけた。魔心に没頭する王は議会が王に対して〈碧翼城〉への幽閉を決定したときも外界の情勢に無関心で、その生活に今さら変化はなかった。彼はひたすら〈意識〉の解明を進め、ついにその真理にも到達していたが、すべては彼の頭の中の妄想であり、外から見れば彼の生活は狂人のそれ以外ではなかった。〈碧翼城〉には僅かばかりの召使いが残っているのみで、蜘蛛の巣の張り巡らされた埃だらけの城の中で彼はもう何十年も、夜毎に彷徨う亡霊となって生きていた。


「偽りを滅ぼせ! 正解を取り出せ! 溶解、溶解、溶解する氷に世界は沈む!!」


 乾いた喉に音をたてて息を吸い、狂った老人は礼拝堂にふらふらと入ってくる。兄弟姉妹に取り押さえられてダント・テスオロス王が喚いたのは〈意識語〉だった。だが、ダント・テスオロス王に魔心術は使えなかった。彼には生来、魔心師になれるだけの感性が備わっていなかったのだ。

「放り出せ」

 入口の騒ぎを振り返ってエディットが指示する。

 その一瞬を、アイヴィ・ダンテスは待ち望んでいたのだ。

 魔心師は一息に〈意識語〉を詠じた。

 その気配でエディットがアイヴィ・ダンテスを見たときには、すでに彼女はやるべきことをやり終えていた。

「何をした、アイネ・ヴィオロン」

 彼女は語りかけただけだ。

 礼拝堂にならぶ堕天使像の中の、堕天使たちに。

 目覚めよ、出でよ、と。

 かつて、まだダント・テスオロス王が若さゆえの明晰さと正気とを残していた頃に、その堕天使像たちはつくられた。何人もの魔心師が、ダント・テスオロス王のために堕天使を捕獲し、堕天使の姿を視る感性のない王のため、像の中に堕天使をとじこめた。礼拝堂は堕天使に見守られて〈意識〉の復活を祈る場となった。

 いまや、魔心師たちは去り、堕天使に語りかけてその声を聞くものはなく、像の中に無為に囚われた堕天使たちは退屈な眠りに就いていた。

 だが今、堕天使たちに呼びかける者がやっと現れた。

 目覚めよ、出でよ。

 台座の上で堕天使像たちが揺れ、そして砕け散った。

 礼拝堂が悲鳴と混乱に襲われる。

「黒い色を襲え、堕天使!」

 礼拝堂は白い霧に満たされていた。感性のある者たちには、堕天使像と寸分違わぬ優美な天使の姿が視えていた。それは堕天使本来の姿というわけではなく、長く囚われるうちに堕天使が記憶した、我が身のあるべきである。人によって与えられたかたちだ。

 飛びかう堕天使は黒い礼拝堂を破壊し、黒い僧服の兄弟姉妹たちを襲った。

 上級司祭の聖言に絡めとられて堕天使たちは次々と墜落したが、堕天使につづいて落ちてきた天井の一部に司祭がひとり潰されて消え、連鎖する崩落は兄弟姉妹たちを逃げ惑わせた。

 アイヴィは立ち上がった。

 この時のために、置き忘れの蝋燭の火で焦がしてあった後ろ手の縄を、ひきちぎる。

 逃げられる。

 アイヴィは混乱を縫って歩きだした。

「そうはいかない」

 背後から冷たい怒りをはらんだエディットの声がした。

 聖言がアイヴィの身体の動きを縛った。

 もんどり打ってアイヴィは倒れた。床に転がっていた大理石の堕天使の頭部にしたたか額をぶつけても呻くことすらできないアイヴィの頭上から、新しい聖言が聞こえた。

 トリ・セルノーの声だった。

「お逃げください、アイネ様」

 身体が、動いた。

「トリ、何をする」

 近付いてくるエディットの前にトリが立ちはだかった。

「エディット。彼女を使っても過去は取り返せないわ。こんなことは神の望まれている道じゃない」

「それは君が決めることではない」

「あなたが決めることでもない。私は私の信じることをするわ。行ってください、アイネ様!」

 アイヴィは走りだした。

 〈碧翼城〉のことなら隅から隅まで知り尽くしている。王族だけに伝えられる隠し通路に潜り込めば万象教徒に追われずに外界へ降りられる。〈碧翼城〉の召使いたちは買収されているのだろうが、近隣施設で山脈の管理人か国境警備隊に出会えれば……。

 何者かの痩せた手に二の腕を掴まれてアイヴィはたたらを踏んだ。礼拝堂の入口で。

 巨躯の影に覆われたアイヴィが振り向くと、狂気にぬめった老人の眼が真上にあった。


「お前、お前、お前は見たことがあるぞ」


 むかし黒々としていた髪は汚れて乱れた白髪となり、こけた頬から喉にかけてはまるで枯れ木のようだった。

 老いた父王を間近にしたアイヴィは強張る口から一言を絞り出した。

「父上」

「娘、娘、娘、おお、お前は我が娘ではないか」

 正気を捨てたままダント・テスオロス王は爛々と燃える眼で叫んだ。

「我が愛する娘ではないか!!」

「お放しください、父上……」

 逃亡の歩みを進めようとしてアイヴィは身を引く。

「どうか、お放しくださいませ」

 乾いた皮膚の張り付いた、しみだらけの、骸骨じみた老人の手が、アイヴィを捕らえて放さない。

 ダント・テスオロス王は狂気に期待をべた炎を眼に燃やして、さらに一歩アイヴィに迫った。

 そして唸るように叫んだ。

「ロシュフ皇太子をったか? アイネよ、言われたとおりに殺ったのだな?」

 わしの願いを叶えたのだな?

 瞠目したアイヴィの腕を、ダント・テスオロス王は勝利者に祝福を与えるように高く掲げてみせた。

 狂喜の表情で王が哄笑した。


「アイネよ、不正解を正すヴィオロンの誇らしき誅殺者! 誅殺者! 誅殺者!」


 老いて痩せても巨躯である王にぶらさげられながらアイヴィは唇をわななかせた。

 その瞳は放心に見開いたまま。

「私は、私、私、は——」

 心が。

 心が引き裂かれた。

「あ……あ……ロシュフ、私、は」

 心はふたつに引き裂かれた。

 哀切に顔を歪めたアイネ・ヴィオロンが、声なき声で泣き叫ぶアイヴィ・ダンテスに手を差し伸べる――。

 伸ばした手はその手をかすめて空を切った。

 アイヴィ・ダンテスは足元を失い、奈落に落とされて底知れぬ闇に飲まれてゆく。

 女は絶叫しながら心を手放した。


 その身体は垂直に崩れてエディット・ヴァルノス上級司祭の腕の中に落ちた。

 彼の傍らの床には、魔心の破滅的な暴走によって真空の刃に切り刻まれたダント・テスオロス王が血の海に横たわっていた。

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