咆哮

 どこからともなく叫び声が聞こえる。

 それは闇の怪物の咆哮か。

 古城をさまよう幽霊の怨念か。

 高くなり低くなる呻きと絶叫は夜毎に牢の彼女に近付き、そして遠ざかる。湖をさざめかす気紛れな風のように。

 その狂った叫び声をアイヴィ・ダンテスは昔から知っている気がした。

 集合住宅の窓にそそぐ月の光の下ですら、その声がいつも聞こえていた気がする。

 束の間の眠りの終わりとともに聖言の効力がきれた。

 目覚めてすぐよみがえる屈辱と怒りと恐怖に、解凍された魔心が沸く。衰弱した身体と精神を魔心が圧倒した。

 今度はアイヴィが絶叫する番だ。

 麻痺させられない心と魔心の暴走。

 司祭たちの聖言による魔心の凍結。

 束の間のまどろみ。

 そしてまた覚醒とともにくりかえす暴走。

 司祭の聖言に縛られているあいだだけ、アイヴィは暴走の苦痛から解放されるのだ。皮肉なことだ。そして無力さを感じるほどに、彼女の心はますます魔心の燃料となる。

「アイネ様」

 鉄格子を軋ませてトリ・セルノーが駆けつけた。

 発狂寸前のアイヴィを抱き起こす。暴れるアイヴィを両腕で抱きながらトリの唇が厳かに聖言を呟く。

 ぐったりとアイヴィの身体が力をなくした。

「聖言は、〈意識〉の復活から万象を護るためにあります」

 アイヴィの身体をそっと横たえてトリが言った。

「おぬしら……上級司祭とやらは……ただの幹部候補ではないんじゃな」

「上級司祭の中でも聖言を扱う者はごく一部です。本来は教区に一人か二人というところですが——」

「いまは壮大な悪巧みのため〈碧翼城〉に結集しているわけじゃな」

 意識の落ち着いているうちに身体の回復をさせようとして、トリ・セルノーは食事を持ってきた。膝の上にアイヴィの頭をのせ、粥の上澄みを少しずつ飲ませた。

 まるで人生の終焉期に介護される老人のようだとアイヴィは自嘲していた。もしも自分に娘か嫁がいたら、トリ・セルノーくらいの齢だろう。

 淡い金髪を短くしたトリの穏やかな瞳を見つめていると、不思議と心が安らいだ。

「おぬしは旧帝国の出身ではないんじゃろう」

「隣国ランセンの教区出身です。ですがランセンも〈羊の毛刈り戦争〉で疲弊して〈赤い鉄線〉に呑まれました。あなたを逆恨みする動機は旧帝国教区出身のヴァルノス司祭と大差ありません」

 そう言ってトリは僅かに微笑んだ。

「あの、おなごみたいな名前の……あいつがいちばん働いておるのはいちばん恨みが深いからか?」

「エディットは、極西神学院きょくせいしんがくいんの聖言術部門で開学以来いちばん優秀な力を示しました。生来の感性でも、聖言学の研究でも」

 〈万象教〉の本山は極西に浮かぶ島国オイドマにある。本山の極西神学院に集められる神学生は、各教区の神学院から選抜された者たちだとアイヴィは聞いたことがあった。

 だが、それをアイヴィが言うとトリは首を振った。聖言術部門は本山の神学院にしか存在しない。聖言そのものは教徒なら誰でも唱えられるただの言葉だが、〈聖言術〉となればごく限られた人間しか触れることのない秘儀なのだ。

「司祭となる者は結婚が禁じられますが、聖言術を扱える者だけは家系が維持されています。天使を知覚する感性は血統に依存するからです」

 アイヴィは小さく首を傾げた。魔心師との大きな違いだ。魔心師の世界では、魔心術の適性が親から子へ血統を通して継がれるものとは考えられていない。感性が遺伝する傾向はなくもないのかもしれない。だがしかし、そうだとしても、魔心師になるために必要なものは信仰でも義務でもなく、〈意識〉への好奇心だからだ。

「でも、エディットはヴァルノス家の血を引く子供ではありませんでした。彼は親のない子が育つ僧院で四つのときヴァルノス司教にその感性を見出され、ヴァルノス家の養子になったひとです。彼にはヴァルノス司教の実子である妹がいて、それぞれ七つのときに極西神学院にやってきました。彼の一年後に私が、私の一年後に彼の妹が。私たち三人は神学院でいつも一緒の親友になりました」

 トリは哀しげに微笑みを深めて言った。

「エディットというのは、彼の妹の名前です」

 それでアイヴィはすべてを察した。

「死んだのじゃな」

 匙をとって粥をまぜながらトリは頷いた。

「はい。十年前、ヴァルノスの両親が〈赤い鉄線〉の侵攻した旧帝国内で殺され、神学院にいた彼と妹は故郷に戻ることを選びました。教区の人々に信仰の希望を灯しつづけることは我々の義務です。私もランセンに戻りました。彼と再会したのは三年前です。故郷に戻ってすぐ妹は〈赤い鉄線〉に捕まって絞首刑になり、彼は広場に晒された妹の姿を見たのです」

 アイヴィは眉をひそめた。

「何故そんな話を私にするんじゃ」

「私にはどうしたら彼を救えるのかわからないからです。アイネ様は彼よりももっと大きなものを亡くされています。王族にとって治めるべき国を亡くすということは、我々が信仰を奪われることと同じか、それ以上の喪失のはず」

「救われたくない人間を救う方法はない。強いて言うならばそいつの罪悪感を抉るだけ抉ってやったほうがそいつの心は喜ぶだろうが副作用として破滅思考は悪化する」

 粥に噎せたアイヴィを起こしてトリはその背中を優しく叩いた。

「そいつの歪んだ自己愛にかかずらうより自分自身の幸せを求めたほうがいい。おぬしのように人の不幸を自分の不幸にして心から悲しんでしまう人間には、誰も救うことはできない」

 上級司祭たちを引き連れてエディット・ヴァルノスが牢へ入ってきた。

「時間だ。答えを聞く」

 手の甲で口元をぬぐいながらアイヴィは笑った。

「実のところおぬしらは選ばせるつもりがないであろう」

 こうして弱った身体では魔心を制御できず、アイヴィの正気はいずれ長く持たない。

「やりたいようにやってみるんじゃな。協力はしない」

「アイネ様」

 トリが目を赤く染めて言った。

「アイネ様。〈赤い鉄線〉がこのまま力を付ければヴィオロンは〈赤い鉄線〉とスリャンの衝突する戦場になります。どうか、我々ではなくヴィオロンのために——」

「私はもうヴィオロンの人間ではない。私は誰でもない、ただの魔心屋じゃ。やりたくもない仕事は受けない。すまんな」

 近付いてきたエディットがアイヴィを無理やり立たせた。

「すぐに〈封印〉を行なう。歩け」

 アイヴィは一週間ぶりに牢から出た。

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