〈碧翼城〉で

『我々にはあなたを貶めようという意図はない。〈赤い鉄線〉の身分闘争思想は我々にないからな』

 そう言って男は——エディット・ヴァルノス司祭はアイヴィを冷たい地下牢へ放り込んだ。

 固く冷たい古城の地下牢。

 両腕を縛る縄は解かれず、目隠しもそのままだった。

 司祭の言葉に嘘はないだろう。彼らはアイヴィの魔心術を常に警戒しつづけなければならない。それと同時に、物理的な隙もなるべく排除しておいたほうがいい。

 アイヴィはけして諦めの早い人間ではない。彼らがアイヴィのそんな性格をどこまで知っているかは不明だが。

 司祭の言葉にはもう一つの意味があるらしい。

 それはこの場所がただの古城の地下牢ではなくて、アイヴィにゆかりの深い古城の地下牢であることから生じる意味だ。

 たとえ目隠しをされ、居場所の情報を遮断されていても、生まれ育った城の足触りや空気の匂いは忘れようにも上手くいかずに、覚えている。三十年以上の時が過ぎても。

 ヴィオロン北部高地の湖の畔に建つ〈碧翼城〉。

 王都での暮らしよりも長い時間をアイネ・ヴィオロンはこの離宮で過ごした。

 蝶よ花よと〈碧翼城〉で遊んでいたかつての王女が地下牢に這い蹲っている絵面えづらは〈赤い鉄線〉の革命屋どもなら涎を垂らす見世物だろうが、〈万象教〉の清らかな兄弟姉妹たちにそれを喜ぶ下衆げすな趣味などないと言いたいのだろう。あくまでも合理的な監禁場所を選んだのみだ、と。

「申し訳ございません……せめてもう少し暖かくして差し上げたいのですが。お湯をお持ちしましたのでどうか冷めないうちに」

 傍らで女の声がしてアイヴィは朦朧状態から目覚めた。

 途端に呻き声を漏らしてしまう。

「どこか痛まれますか、妃殿下」

「妃殿下はよすんじゃ」

 手を添えられてアイヴィは身を起こす。極寒の石の床で固まった身体には、痛みを感じる機能しかもう残っていないような気がする。

 一瞬ためらう気配があって、意を決したように女はアイヴィの目隠しを外した。燭光に目が眩んだ。女は蝋燭を背後へ遠ざけ、アイヴィの凍りついた唇に温かな陶器の碗のふちをあてがった。やがて視界の明暗がはっきりしてくる。白湯の湯気の向こうで若草色の瞳が心配そうにアイヴィを見守っていた。

 トリ・セルノー上級司祭、と女の声が数日前に名乗った名前をやっとアイヴィは思い出す。

「我々はあなたの敵ではないのです。なのに、こんなやり方をしては誤解が生まれるだけです……」

 もどかしそうに下を向いてセルノー司祭は言った。

「ふん。『悪意はない』『敵ではない』、と仲間の男も言っておったがな。なに、誤解などしないさ。心配しなくても」

 寒さと痛さと鉄格子の頑丈さは誤解しようがないからな、と皮肉の笑みを見せたかったが冷えた筋肉は表情さえ上手く作れない。

「その通りだ。誤解などない」

 鉄格子の向こうの壁に影が先行し、ヴァルノス司祭が現れた。

「姉妹。今は君の当番時間ではない。下がれ」

 鉄格子の扉をくぐって牢に入ってくると、ヴァルノス司祭は固く冷たい声で同僚に命じた。

「わかったわ。兄弟」

 不本意そうに顔をそむけてセルノー司祭は立ち上がった。

 隅に立つヴァルノス司祭の前をすり抜けて外に出る。鉄格子の向こうで振り返ったセルノー司祭は男の横顔を厳しい目で見つめた。

「エディット」

 何らかの意見を含んだ声だった。

「姉妹。下がれ」

 ヴァルノス司祭はにべもなく言った。セルノー司祭の足音が遠ざかってゆく。

「話を聞く気になったか? アイネ・ヴィオロン」

 薄暗い地下牢の黒い影となってエディット・ヴァルノス司祭はアイヴィを見下ろしていた。

 漆黒の髪と同色の司祭服が闇に溶け込み、氷青の眼の冷酷さがいっそう際立つ。

「話なら聞いてやると言っておるじゃろうが。聞くだけならな」

「あくまで逃亡のために情報を得たいだけなら、我々が損をする」

「それでは交渉もへったくれもないじゃろうが。やれやれまったく。しょせん坊主に政治の真似事なぞ無理なんじゃ。一生ありがたくもない神の戯言でも唱えておれよ」

「その聖言ざれごとで囚われているのがあなただが」

「ほんとにな。クソ忌々しいことじゃ」

 喉を湿らせた白湯の分だけアイヴィの肌に脂汗が滲んでくる。屈辱と怒りで暴走しようとする〈魔心〉に、疲弊した身体が悲鳴を上げているのだ。

 魔痺タバコを吸えない状況で、強い喜怒哀楽の感情は魔心師自身を危険にさらす。

「クソ忌々しい聖言の効力が切れている間に、情報なんぞは耳を塞いでおっても精霊が煩く喚いてくるのじゃ。〈碧翼城〉が今では〈万象教〉残党の隠れ家となっているとは、さすがの私も知らんことじゃった。だがおぬしらも上手いところに目を付けたものじゃ」

 ヴィオロンにおいて〈万象教〉は長く排斥されてきた。その排斥の歴史は〈赤い鉄線〉が勃興する遥か以前に遡り、十三代国王ダント・テスオロスが戴冠時にくだした初勅を嚆矢とする。ダント・テスオロスは魔心術の心酔者だった。魔心術を唯一の世界真理として崇めるダント・テスオロスにとって、〈万象教〉はまがい物の邪教だった。そしてまたダント・テスオロスは、アイネ・ヴィオロンの父だ。

 ダント・テスオロスは、今では狂王と呼ばれている。

「おぬし、齢は三十かそこらじゃろう。言っておくがヴィオロンの排斥法では〈赤い鉄線〉のように教徒どもを吊るしたりはせんじゃったぞ。酷くても教会財産の没収と打ち壊しまでじゃ。老輩どもから過去の因縁をどう聞かされているのかは知らんが」

「我々はダント・テスオロスの罪をあなたに被せようとしているわけではない」

 ヴィオロンは現在も王国の体裁をとるが、彼ら〈万象教〉にとって憎むべき王家はすでに政治から遠ざけられている。ダント・テスオロスが治世を投げ出し〈碧翼城〉に籠って魔心術の研究に浸りきるあいだ、外交勘と改革手腕に優れた宰相が執政にあたったのはこの国の幸いだった。〈赤い鉄線〉勃興とともに大陸に広がった革命の波は、ヴィオロンでは穏やかな吸収にとどまった。周りを囲んだ〈赤い鉄線〉の圧力を受けて、実質的に王室の権力は剥奪されるに至ったものの、国王不在のうちに力をつけていた国民議会はすでにダント・テスオロスの首と血を欲しなかった。

 ダント・テスオロスへの私怨を晴らしたいならば今ではそれは難しくない。アイネ・ヴィオロンをわざわざ連れてくるよりも簡単なはずだ。

「まずあなたに訊きたいことが我々にはある」

 氷のような表情を微塵も動かさずにヴァルノス司祭は言った。

「帝国皇太子はどこへ行った」

 アイヴィは大げさに目を開く。

「どこへ行ったじゃと? それはおぬしらが専門的によく知っておるところじゃ。〈神〉の膝元とかいうところじゃろ? ああ、御許じゃったか? むしろこっちが訊きたいが、御許とはどこのことなんじゃ。足元か、腹の中なのか? まあそもそも、私の夫は真直ぐ神のいるところへ昇れるほど素直な心の持ち主ではなかったがな」

 氷青のまなざしはアイヴィの挑発の奥を見透かすようだ。

「帝国皇太子ロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフは公式には暗殺によって死んだとされているが、彼の死には謎が多い。最も不可解なのは国葬中に亡骸が公開されなかったこと。後年になって皇太子の死に不審を抱く一派の者が墳墓の棺を暴いたところ、中は空だったとも言われている」

 アイヴィは演技でも何でもなく顔を顰めた。

「私の夫は、愛人の館で同衾しているところを暗殺者に踏み込まれて殺られた。あまりに体裁が悪いので発見から発表までいろいろとごちゃついてしもうたために、却ってあらぬ噂を呼び放題になった。遺骸を公開できなかったのは撃ち込まれた銃弾のせいで顔面がぐちゃぐちゃだったからじゃ」

 後手に腕を縛られた不安定な体勢でアイヴィはやれやれとかぶりを振る。

「まことに残念じゃが、私の夫はあの日に死んだ。私やおぬしらがどんなに懐かしがったところで、もう生きてはおらぬ。覆らん事実じゃよ」

 石床に置かれた燭台で溶け落ちた蝋のように、生と死は、やり直しのきかない不可逆の出来事だ。

「では次に、皇太子の死後あなたは何をしていた」

 アイヴィは短い蝋燭の炎を見つめたまま首を傾げた。

 問いの意図するところを掴めない。

「皇太子妃アイネ・ヴィオロンは服喪の名目で公に姿を現すことがなくなり、外交記録上も以後は完全に名前が消える。あとは戦争の混乱で帝室の全てが灰燼に帰したわけだが、そのとき歴史の彼方に消えたのは一人の皇太子妃ではなく、皇太子妃を皇太子妃として認識する帝国臣民が消えたのだ。現にアイネ・ヴィオロンはここに生存している」

「いったい何が言いたいんじゃ? 夫を亡くしてからの寡婦の恨み事を綴りし日記でも提出したらよいのかの。所望は何年分じゃ? と言うて、そんな面倒な日記は付けとらんが……」

 身体のうちで暴れる魔心の嵐をやり過ごすためにアイヴィはぶつぶつと呟きつづけた。牢の床に、壁に、天井いっぱいに、ありとあらゆる種類のそいつらが〈むこうがわ〉から顔を出して興味深げにアイヴィを見ている。

 たぎる魔心に惹かれてやってきた精霊が。

「皇太子の死は婚礼から半年後だ。皇太子妃が懐妊していたとしておかしくはないだろう。だが何らかの事情で皇太子妃は懐妊を周囲に知らせなかったのではないか」

 アイヴィの身体をとつぜんの大きな震えが襲った。

 彼女は声を上げて笑っていた。

 この上もなく愉快に、そして不愉快に、いびつに嗄れて上ずった声で。

「何を言うかと思えば、これは笑いきれんな」

 引き攣った笑いの発作で息を失いながらアイヴィは、ヴァルノス司祭に向かって目を剥く。

「私が子供を産んだ女に見えるのか?」

 呆れ返って次々と爆発的な笑いが込み上げた。

「なあ、この脚の間を覗いて確かめてみるか? 医者なら赤子が通った跡は判るらしいぞ? 私はぜんぜん構わんよ?!」

 汚れた服の窮屈な裾の中で両脚を広げ、アイヴィは石床をばたばたと蹴り叩いた。

 ヴァルノス司祭は冷然とアイヴィの狂態を見下ろしている。

「そもそも私がどうして懐妊を隠す必要がある。百害あって一利もなしじゃろうが」

「皇太子暗殺の背景すら諸説が錯綜し、未だ解明されていないのだ。皇太子が殺される理由が幾つも考えられるということは、世嗣ぎの皇子が殺される危険性も色濃くありえたということだ。皇太子妃は情勢不安を察知して赤子の安全を優先したのかもしれない」

「仮説の上に仮説を積んで、おぬしらは見たい夢しか見ておらんのじゃな」

 そもそも見たい〈神〉しか見ておらん連中じゃからな。

「そうかそうかそうじゃったか。私の幻の赤ん坊を担ぎ上げて帝国を再興し、〈万象教〉の坊主天国よふたたび、とやりたかったわけじゃな。申し訳なかったな。幻はどこまで追っても幻。潔く諦めたほうがいい。なあに〈赤い鉄線〉などそのうち無理が来て自滅するのがオチじゃ。おぬしはまだ若いのだから、時が来るまでゆっくり地道に研鑚を深めることじゃ。とりあえず赤い奴らのいない所でな」

 無表情なままヴァルノス司祭は言った。

「アイネ・ヴィオロンにはアイネ・ヴィオロンの罪を贖ってもらう。帝国に世継ぎをもたらさなかった罪を」

 もはや笑う力もアイヴィにはない。

「おい、無茶を言うな」

「我々の仮説を認めるだけでいい。それが〈忘れられた羊の帝国〉最後の皇太子妃としてのあなたの役割だ」

「おぬし、せっかく綺麗な耳の形をしておるのじゃから、人の話はよく聞くものじゃ。世嗣ぎの皇子などいな……」

 はっとしてアイヴィは言葉をすぼめる。

 まさか、と思った。

「金髪碧眼の美男子。ロシュフ皇太子を連想させる適当な男に皇太子妃の保証があれば充分だ」

 本物が幻ならば偽物を立てればいい。

 ここまで司祭の口から語られた仮説はそのまま、偽物のために用意された物語なのだ。

 ただし本物の皇太子妃が語ることで、その物語は歴史の真実になる。

「私はこんな見た目じゃぞ」

 魔心を得たときに身体の老化は止まり、アイネ・ヴィオロンは当時から一つも齢をとっていない。

 今更、この姿で人前に出ていったところで……。

「むしろ好都合だ。寸分変わらぬ姿であればこそ民衆はあなたを最後の皇太子妃アイネ・ヴィオロンだと信じる。民衆にとって王族などもともと雲の上の特別な人種だからな」

「はっ。誰がそんな茶番に付き合ってやるか、アホか」

 坊主どもの道具にされるよりは、このまま魔心に消耗して死んでいったほうがましだ。

「選択肢は二つだ、アイネ・ヴィオロン」

 主導権を握る者の高揚さえ、彼の口調には感じられない。

「我々の要求通り皇太子妃アイネ・ヴィオロンに戻るか、さもなくば」

 吹き荒れる魔心に歯を食いしばりながらアイヴィはつづきを聞いた。牢いっぱいに、そいつらが飛んだり跳ねたりふわふわと流れたり、そこらじゅうに溢れて乱痴気騒ぎをはじめている。

「その身体の中で、〈意識〉のように永遠の眠りに就くかだ」

 ヴァルノス司祭は壁から離れてアイヴィに近付いた。

「私の意識を封じて身体を乗っ取るつもりじゃと……?」

 司祭を見上げてアイヴィは呻く。

 原始、〈神〉が〈意識〉を封じた言葉を、聖言という。

 聖言は膨大であり、聖典に記された全てを唱えるなら五日はかかる長さのものだ。アイヴィを囚えておくためにヴァルノスら高級司祭たちが用いる聖言は、一部の言葉の組み合わせによって様々な効果を魔心にもたらすらしい。魔心師が魔心術を研究によって拡げたように、〈万象教〉の中枢では聖言術の研究が行なわれてきたのだろう。

 短い聖言の効果は限定的だ。だが、聖言がもともと〈意識〉を封じるための言葉であれば、〈意識〉の欠片たる魔心を恒久的に眠らせることも理論上は可能だろう。魔心は宿した人間の心に同化している。魔心を封じるということは、心を封じられるということ。残るのは機械的な生命活動と知能だけ。それは吹き込まれたことを喋るだけの人形になるということだ。

「明日までに答えを出せ」

 頭を鷲掴みにしてアイヴィの首をもっと反らせると、ヴァルノス司祭は言い聞かせるように告げる。「我々とあなたの間に誤解などない。これが神に従う我々の意志だ。神はあなたに贖いを求めている」

 眩むような屈辱と怒りで魔心が暴発した。

 それは一瞬の攻防だった。エディット・ヴァルノスの聖言に魔心を凍らされてアイヴィが崩れ落ちるまでの一瞬。そいつらが偶然に起こしたかまいたちの一陣が、司祭の頬をひとすじ切り裂いて、霧散するまでの。

「贖ってもらう。必ず」

 蝋燭の消えた牢の闇に、昏い炎に焦がされるような司祭の呟きが残された。

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