シュナウツさんの魔草園
「わしに残った能力は堕天使と会話する感性と、魔草園の管理くらいぞ」
書棚にぎっしりと詰められた本の隙間に、窮屈そうに四角い硝子壜が挟まっていた。
透明な硝子の中で乳白色の煙がたえず蠢いている。
煙の輪郭は何かの形をとりそうで、とらない。掴み所のない運動が、逆に生きものめいた意志を感じさせる。
「こう言っておるぞ。『湖の娘は湖に戻る』」
硝子壜の中の堕天使と会話したシュナウツが、耳をぴんと立てて言った。
堕天使を捕獲して飼う魔心師は珍しくない。堕天使を通じて〈意識〉の研究に努めるために。むしろそれこそが魔心師の本分で、常道だという。
「あの堕天使も言ってたな。ヴィオロンの湖の娘」
ヴィオロンは国の名前だ。碧き湖畔のヴィオロン。〈忘れられた羊の帝国〉の北西に隣接し、国土の半分をクノヘン山脈が占める、自然美と古い歴史をもちあわせた小さな王国。
そして——。
「アイネ・ヴィオロンの出身国ぞ」
ヴィオロンは東の大国スリャンと北端で国境を接する。地政学上の緩衝地であり、ヴィオロンを獲ることは即ち大国スリャンへの侵攻準備を意味する。ゆえに〈赤い鉄線〉は、武力差を背景に内政干渉の圧力をかけながらもこの小国をまだ手に入れてはいない。
大国スリャンと〈赤い鉄線〉という二大勢力に挟まれながら二重外交をつづけることがヴィオロンの生存戦略だ。
かつては帝国とスリャンの間で同じことをしていた。
王族の婚姻外交もその一つだ。
「シュナウツさんはアイネ皇太子妃を知っているわけだな」
「いやもっと前、王女時代から知っておる。あれの父親に魔心の心得を授けたのが他ならぬわしぞ」
「じゃあ、ミハも知っている?」
「ミハ!」
シュナウツは蚤にでも刺されたようにびくんとしてから後ろ脚で首筋を掻いた。
「その名を口にするも畏れ多いミハは現存する中で最古の魔心師ぞ。わしの幼少時よりすでに最長寿と言われていた。最古にして最大の魔心師ぞ。〈意識〉の領域の多くが彼によって解明され、また魔心術の中核をなす精霊解放術の可能性を格段に拡げたのも彼の幾多の実践によるという。しかし滅多にミハはその姿を人前に現さぬ。謎に満ちた偉大なる魔心師ぞ」
このまえ会った青年は、それほどの大人物だったのか。
「風の噂で小娘がミハに弟子入りしたとか聞いたがどうせ王族の面子が言わせた大法螺ぞ」
「いやあ、あれは本物だと思うぞ」
外見は身軽そうな好青年だったが、彼の振るう力は桁が違った。
「アイヴィは、ミハはこの世界の敵だと言ってた」
「ミハの価値を理解できぬゆえに小娘は小娘ぞ。すなわち魔心師の意義というものを!」
シュナウツはルシオに堕天使の硝子壜をとれと指図した。
それから机の上の片眼鏡も。
「この
さらに裏の魔草園からも持っていきたい荷物があるという。
台所の裏口から外に出ると、視界に入ったのは畑でも花壇でもなく、
どの樹も、黒々とした幹の外周は小ぶりの山小屋くらいの太さがある。
小楢は落葉樹だが、ここでも季節感を無視して青々とした葉が日差しを透かす。狂ったようにちかちかと輝く葉叢はまるで宝石でできた屋根だった。
シュナウツはまっすぐ一本の樹に向かい、太い根の重なりに爪を立てて登り、幹に開いた亀裂から大樹の中に入った。
大樹の中は、ぽっかりと刳り貫かれた洞だった。上部に穿たれた無数の穴から日の光が降り注ぐ。
その下で、黒い花々が咲いていた。
平たく円を描く、ぺらぺらの真っ黒な花。
花々はおびただしく群れて折り重なっていた。
蒐集家の集めた蓄音盤を千枚もばら撒いたみたいだった。
大陸のどこでもこの色形の花は見たことがない。
「これはむこうがわの花か」
「否ぞ。元はこちらがわの在来種ぞ。魔草とは〈意識〉を封じる氷の融水で育てられて奇形化した草花をいう」
珍種の花々に気をとられてつまづいたルシオが足元を見れば、なかば土の中に埋まって本物の蓄音機が金属製の喇叭を覗かせている。
ルシオは洞の天井を仰いだ。
「〈意識〉は地下のずっと深くで氷詰にされているんだよな。どうやって融水を汲み上げてる?」
ときおり天井から滴る水が花弁を濡らす。
「それこそ〈通路術〉ぞ。座標を使って木の根の道管につなげておるぞな」
細かい指示を与えられ、ルシオは隅に置かれた道具を使い、魔草の花粉を採取した。平たい円盤状の花は両手で持ち上げるとブチという音をたてて茎から外れる。萼には黄色い花粉がぎっしりと詰まっている。鉗子でつまんだ綿毛状の花粉を試験管に落とす。花粉はふわふわと試験管の底に溜まってゆく。
シュナウツは大樹の森のそれぞれの洞で、実験的に様々な魔草変種を栽培していた。
魔草の採取と乾燥作業は魔草屋の雇われ店主が定期的に来て行なっているという。
「じゃあ、シュナウツさんは〈意識〉のすぐ近くまで行ったことがあるのか」
「魔心を得ようとする者は必ずぞ」
無知な素人を相手にシュナウツが鼻先をひくつかせた。
それがどれほど到達困難な偉業で、偉業に到達した己がどれほど高い実力の持ち主だったか。誇示しないではいられない様子。興奮して落ち着かなくなった犬の習性で、耳の裏を後ろ脚でひっきりなしに掻きながらシュナウツは言った。
「あの場所で一度死なねば真の魔心師にはなれんのぞ」
× × × × ×
「じゃ、点火するぞ。シュナウツさん」
原付三輪に跨がってルシオは防塵眼鏡を下ろした。始動した原動機が獰猛に震えて森の静けさを破る。
防寒上着の中でシュナウツの身体も震えている。
「何とも窮屈ぞなもし」
「でも温かいし安定するんで一石二鳥だぞ。ちょっと犬くさいけど」
首元からシュナウツが顔を出し、忙しなく頭をめぐらせて周囲を見渡す。
ルシオはズレた片眼鏡を直してやった。
田舎家を後にするとき、出立の支度の仕上げは犬の目ヤニをきれいに拭って、立ち耳につるを引っ掛けるシュナウツさん専用の片眼鏡を装着してやることだった。犬の姿で久方ぶりに外界へ出てゆくのだから、身なりを気にするのは当然だ。
堕天使は雑嚢の中だ。
目的地は碧き湖畔のヴィオロン。
犬くささにも勝る油くさい黒煙を曳いて、大型三輪は森の辺から街道へ飛び出していった。
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