犬と軍曹

 シュナウツの住所は川を越えた郊外のずっと先のほうにあった。

 街道沿いに森と沼が点在する旧帝都北部のなだらかな丘陵地。その裾野。他の幾つかの村からは離れて、森の陰にひそむように小さな園を営む囲いがあった。

 門の前に原付三輪を停め、ルシオは防塵眼鏡をとった。

 柵の内側には藤棚に咲くたわわな花房の群れが園を目隠しするように揺れている。秋の終わりにもかかわらず。

 フゥン……。

 動物の鳴き声みたいなものが聞こえ、ルシオは原付三輪を跨いだまま背後を振り返る。

 犬だった。

 立派な口髭と、本の頁を折ったかたちの両耳が特徴の、灰色の犬だ。

 ちょこなんと尻を落として座っていた。

「ち、にゅあ、ま、ぐ、しゅあい、よあっつ、ぞ」

 犬が立てつづけにあくびしたように見えたが。

 ——血なまぐさいやつぞ

「喋ったのか?」

 毛が絡まって目ヤニだらけになっている眼をしばたいて犬が腰を上げた。

 トコトコと門のほうに歩いて、

「しゅあ、べっちゅら、いがんぐわ」

 ——喋ったらいかんか

「あんたがシュナウツさん?」

 犬は僅かに隙間の空いた門の中へトコトコと入ってゆく。

 ルシオは原付三輪を降りて後を追った。

 錆びついて固まった門を何とか通れるくらいに開けて園に入った。

「面白い話を持ってきたんだよ。あんたの長年の好敵手であるアイヴィ・ダンテスがすげえ間抜けなことになってるらしいってね」

 本当は二人の魔心師の仲などよくは知らない。当てずっぽうである。

「小娘が魔心術を舐めすぎた報いぞ」

 雑な予想は当たったようだ。

 そして犬が喋っているのも現実であるようだ。喉の構造的にかなり無理をして人語を発しているが、かろうじて意味は取れる。

「俺が来るのを知ってたみたいだな」

「知るまいぞ」

 石畳の小径を犬は頭を低くして歩いていく。

「傍迷惑な騒音を撒き散らしながら来おったろう。何事かと堕天使の〈遠見言とおみごと〉を使ったまでぞ」

「堕天使?」

 ルシオは思わず身構えて辺りに注意を払った。普通の堕天使は人を襲ったり喰ったりしないのだったか。しかし、普通の堕天使、というのも妙な言い方だなと思う。

「それで、あんたの堕天使はなんて言った」

「『あまりにも多くの死と失望』」

 犬の後ろでルシオは首を傾げた。

「それから、こうぞ。『釣り銭が足りない』『売り上げが目標に足りない』『カミさんが決定的に足りない』」

「何なんだよ、おい」

「こちらの台詞ぞ。どうもわけのわからん人間が飛び込んできたものぞと思うてな。わざわざ外に出てしまったぞい」

 藤棚の下の小径を抜けるとこじんまりした田舎家が建っていた。

 犬は犬用の潜り戸から玄関を入る。ルシオは犬が消えたあとのぶらぶら揺れる潜り戸にかがみ、ちょっと押して声をかけた。「俺はルシオ・モニークって者だが」

「早く聞かせんか馬鹿たれぞ。小娘がどんな無様な死に方をし、その断末魔はどのようだったかをな!」

「そこまではまだ不明なんだが」

 人用の玄関の鍵は開いていた。

 田舎家の中は暖炉が焚かれた居心地のいい空間だった。暖炉の前には柔らかそうな毛皮の敷物が敷いてあり、その周りに幾つかの椅子があり、壁には野生動物の剥製。どこもかしこも清潔に片付いていて、魔痺タバコの匂いもしない。奥に台所。扉の閉まった部屋が一つ。

 どこにも主人の姿はない。

「シュナウツさんは?」

 毛皮の敷物の上にちょこなんと座った犬にルシオは訊いた。「その……何て言うのかわからねえけど、“本体”は?」

 犬はピクリと耳を動かした。

「人間の肉体ぞ? そんなものはとうに捨てた」

 なるほど。確かにシュナウツさんは、魔物だ。

 ルシオは簡潔に用件を話した。アイヴィ・ダンテスの住居の異変。自分はアイヴィ・ダンテスの近所の人間であること。諸事情あって〈赤い鉄線〉の命令でアイヴィ・ダンテスの行方を追跡していること。

「手掛かりをもらえないかと思ってやってきたんだ。アイヴィ・ダンテスは師匠のミハを探すのに魔心術を使ってた。彼女以上の魔心師であるシュナウツさんならもちろん同じ術がもっと上手く使える筈だ」

「水盤の通路術ぞ? あの術は予め座標が要るぞな。出口に前もって目印をくっつけとかんとならん」

「そうか。ほかに使えそうな術って……」

 シュナウツがしきりに鼻先をクンクンと蠢かせ、こちらに向かってよだれを垂らしているのでルシオは言葉を切った。これはあれだ。近所の野良犬や野良猫が寄ってくるのと同じあれだ。肉つきの骨でも持ってきてやればよかったな、とルシオは思った。倉庫の在庫はすべて昨日のうちに同業者にやるか焼却してしまったが。

「干し肉なら荷物の中にたくさんあるけど」

 途端にシュナウツが歯を剥き出してぐるるるると唸った。見るからに激怒している。

「馬鹿にするでないぞ。わしは人間ぞ」

 弁解代わりにルシオは両手を開いてシュナウツの気持ちを鎮めさせた。

「悪かった悪かった。嗅覚と言えば、さっきの堕天使の……何だっけ?」

「遠見術ぞ」

「もう十一日も経っているから無理かもしれんが、たぶんアイヴィ・ダンテスを乗せた荷馬車は、川を越えて帝都北部にのびる街道に入り、この近くを通った可能性がある」

「十一日……それは小娘の意識はもう掴めんな。しかし、ぞ」

 得意げに頭を振ってシュナウツはつづけた。

「堕天使の遠見術をこの辺りの精霊に向ければよいだけぞ。目撃者がいる筈ぞなもし」

 思っていたより親切な犬だ。いや親切な魔物か。とにかく話のわかる魔心師じゃないか。

「協力してやってもいいがな。一つ条件ぞ」

 そう言いながらシュナウツはすでにトコトコと歩き出していた。閉じた扉の部屋に向かって。

 その部屋にも犬用の潜り戸がある。

「モニーク。わしを一緒に連れてゆけ」

「そんなにアイヴィ・ダンテスの弱っている所が見たいのか」

「この老いぼれに他に何の楽しみがある。馬鹿をやって堕ちていく若者を笑ってやるのが余生の意味ぞ」

 思ったより陰湿な犬だ。

「だがそれだけでもない。わしはわかっておるぞ、モニーク。お前が血なまぐさいのは身体だけではなかろうぞ」

「〈赤い鉄線〉の連中か。確かに奴ら、俺の後をこっそりつけてきてるだろうな」

 そしてルシオがここを出て行った後で、彼らは魔心師のねぐらに踏み込むだろう。ルシオのやり方よりも確実に魔心師に協力を要請するために。

 面倒事を持ち込むのを承知でルシオはシュナウツを訪ねた。

「そうか。シュナウツさん、俺も今わかったよ」

 彼がアイヴィ・ダンテスに敵意にも近い対抗心を燃やし、彼がアイヴィ・ダンテスの失敗を望み、——彼がアイヴィ・ダンテスを羨む理由が。

 閉じた扉を開けた先に、埃除けの布であちこち覆われた書斎があった。

「あんたは魔心師だけど、もう、魔心術が使えないんだな」

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