出発
「よお、トニオ」
ルシオは寝台の下から引っ張り出したブリキ缶の蓋を開け、そいつに挨拶した。握りのゴムが擦り減った軍用ナイフに。「久しぶりだな」
豚革の鞘を外す。仕舞う前に油を塗り込んでおいた刃は錆びていない。
それから次に彼が手にしたのは、五重の輪にまとめた軍用鞭だ。
二つの得物を雑嚢に詰めると、ルシオはブリキ缶を元の場所に蹴り入れた。壊れた時計や欠けた剃刀という軍隊時代の持ち物が中で崩れて音をたてる。その上からギイギイとバネの軋む音を被せてルシオは寝台に寝転がった。
「頭からバリバリと喰われたの、あんたの旦那だったんじゃねえか」
薄汚れた仮眠室の天井を仰いで呟く。
しかしアイヴィ・ダンテスは旦那を喰った犯人の堕天使よりも、自身の師匠であるミハをもっと憎んでいるようだった。
よくわからない。
翌朝にはもう、店の始末と戸締りをしおえてルシオは出発した。
店の前には軍の制式番号を持つ最新の大型原付三輪が停めてあった。特務がルシオに必要なものを訊いて用意したものだ。ご丁寧に軍籍復帰の証書と認識票までが枯草色の軍装とともに届けられた。それと猟銃。
一度だけ、朝日に輝く〈カーン精肉店〉の看板を見上げた。
店の鍵は老夫婦に預けた。再びここへ帰ってこられるとは限らない。でも戦場の仲間で日常に帰ることのなかった者はごまんといる。こういう感傷は贅沢であることをルシオは知っている。
原動機に点火し、まず最初にルシオはシュナウツの魔草屋に向かった。
「何だい、そのかっこうは」
〈赤い鉄線〉の軍装姿で現れたルシオを見て驚き呆れるように店主は言った。
「いろいろある。誰だっていろいろあるんだよな、店主」
防寒上着の釦を開けながらルシオは店主の佇む会計台にとりついた。
「アイヴィ・ダンテスが行方不明だ」
「ほー」
「ほー、じゃなくて。あんた心当たりはあるか」
「ついにミハの所に行ったんじゃないのかね。大願成就」
「ああ、アイヴィ・ダンテスが部屋に籠ってやってた魔心術については何となく知ってる。だが今回は、たぶん魔心術の結果じゃない。誰かが来たんだ。玄関から」
ルシオは会計台に証拠を置いた。帳面を破った紙に包んでおいたのは、潰れた魔痺タバコの吸い殻だ。
格子状の靴跡が刻まれていた。
「アイヴィ・ダンテスは底が擦れきったぺたんこの古い靴を履いてた。部屋に出入りした役人たちの高級な革靴にも溝はない。この足跡は木屑を固めて溝を切った靴底のものだ」
「むかし教会が健在だった頃は、そういう靴は修道僧が作って売っていたんだよ。安くて持ちがいいから助かったもんさ」
「〈万象教〉か」
たとえば〈万象教〉がアイヴィ・ダンテスを誘拐したとして。
その理由と行き先は——。
「〈万象教〉といってもいろんな集団があるしな」
かつては巨大で磐石な組織系統によって運営されていた〈万象教〉の教会群だが、〈赤い鉄線〉の苛烈な弾圧下で各支部間は寸断され、地下に潜った教徒たちは政治的な抵抗組織と混ざり合って個々に独立した運動をつづけている。
「すでにお手上げかい?」
「いや。可能性や必然性のあれこれは特務のほうが専門家なんだから、とっくに予測しつくして捜索にあたっている最中のはずだ。奴らが俺を動かしたのはそんなことのためじゃないんだよ」
「じゃ、何のためにだい」
丸眼鏡の奥の小さな眼を店主はしばたたかせた。
シュナウツの魔草屋の店主、と呼ばれている老人が、本当はただの売り子であることは客の魔心師たちはみな知っている。この老人に魔心術の心得はまったくなく、客が勝手に見繕う魔草を決められた値段で売って帳簿をつけるだけの、ただの店番だ。
だからだろう。ルシオは老人に、普通の人間同士の親近感を持っている。
「あんたの雇い主のシュナウツにはどこへ行けば会える?」
「はー」
「はー、じゃなくてだな」
都合の悪いときには呆けたふりをするのだ、この雇われ店主は。
「アイヴィお嬢ちゃんを見つけたら、あんたはお嬢ちゃんを上司に売り渡すつもりかい」
丸眼鏡の奥から店主は上目遣いにルシオを見た。
「金にはならねえよ。〈赤い鉄線〉が俺に報奨金を出すとは思えん」
「だったら表のデカブツで適当に近所でもぐるぐると回っとけばいいじゃないかね。それとも、赤いやっこさんたちにそんなに大きい義理があるのかい」
「義理もねえよ。生まれた国がたまたま〈赤い鉄線〉の本拠地だったってだけなんだ」
王政時代も、革命後も、流浪民を母に持つ人間への風当たりは変わらなかった。軍隊に入ったのは〈赤い鉄線〉の政治思想に共鳴したからというわけじゃない。それ以外にはまともに生きていけそうな道がなかったからだ。
軍隊で食わせてもらった飯の分と居場所をもらえた安堵感の分の借りは、命がけの働きで返しきった自負がある。
もし、軍隊生活がルシオに何かそれ以上のものを残したとすれば……。
「これは戦場で身に付けちまったらしい俺の勘なんだが」
抜け殻のように落ちていた黒い肩掛け。
特務の入念な聞き込みでも連れ去りの目撃者はいない。おそらく真夜中の訪問者。すぐ真下の仮眠室のルシオが気付かないくらいに気配を消した誰か。
この先の根拠はないが、ルシオの脳裏には夜明け前に十字路を折れていった荷馬車の影がくっきりと浮かんだ。
十一日前のあの朝だ。
御者台の影は、たった一つ。
「堕天使にケンカ売って
無力な女が乱暴な手段で連れていかれた。もしかして命の危険に晒されているかもしれない。
〈赤い鉄線〉に売るの売らないのは、今この瞬間の危険をアイヴィ・ダンテスの上から取り除けたあとの話だ。
「ふー」
店主は風を送るようにルシオに向かって手をぱたぱたした。
「ふー、じゃねえんだよ」
「わかったわかった。シュナウツさんとアイヴィお嬢ちゃんは古い仲のようだし、シュナウツさんもかえって面白がるかもしれん」
店主はシュナウツの住所を口頭で教えた。
「ただし、シュナウツさんはアイヴィお嬢ちゃんが魔物と呼ぶほどの人だ。一筋縄ではいかんよ」
ルシオは礼を言って踵を返した。
「今日も明日も魔心師の心の健やかならんことを」
薄暗い電灯の下、外した丸眼鏡を拭き拭きしながら店主が言う。
「いや俺は魔心師じゃなくて肉屋……でもなくなったな」
「六十肩に敬礼はさせんでくれるかね、大尉どの」
鈴の鳴る店の入口で振り返ってルシオは肩をすくめた。
「俺は万年軍曹だよ」
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