真っ昼間の訪問者

 カーン精肉店の店主ルシオ・モニークの早朝の日課は路上清掃だ。

 その日も時間通りに顔を洗って朝霧の濃い通りに出てきたルシオは、右手から響くわだちの音に振り返った。川沿いの道に向かう十字路を荷馬車が折れてゆくところだった。この時刻に動くものがあるのは珍しい。野良猫やカラスが朝の食事を探しはじめるのは、もうあと二十分くらいした頃だ。

 ルシオはいつもの朝の決まった仕事をこなし、己の完璧な手際に満足しながら店を開けた。

「よし」

 どこからともなく突然のゴミの山が落ちてきたりしないだけで、それは良い朝だ。

 気持ちのいい一日のはじまりと言えた。

「今日も今日とて、めざせ惣菜売り上げ先月比一割増し、だぜ」



 それから一週間が過ぎた日のことだ。

 店の前に真っ黒な塗装の原付乗用車が停まった。おそらく〈赤い鉄線〉当局の登録車だが、こんな下町に何の用だろうか。ルシオは店の中からその動向を窺っていた。車から降りてきた男たち二人は、しかしカーン精肉店には入って来ず、集合住宅の玄関に向かった。男たちは構成服と呼ばれる〈赤い鉄線〉党員の制服を着た役人だ。

 ルシオに用があるのでなければそれ以上彼らに関心を向ける必要もない。むしろ〈赤い鉄線〉の役人の注意を引くふるまいは誰であれ避けるべきだ。

 役人たちは小一時間ほど経った頃に建物から出てきてそのまま車に乗り込み、去っていった。



 それから三日後の昼だ。

 カーン精肉店の前に〈赤い鉄線〉の旗を立てた大型の原付乗用車が停まった。

 ルシオは一目みて頭の隅で危険信号が鳴るのを聞いた。

 〈赤い鉄線〉の風紀長専用車から降りてきたのはアマデオ・キンケル風紀長その人だった。

 〈赤い鉄線〉の最高指導者だ。

 アマデオ・キンケル風紀長閣下は柄の曲がった杖を軽快に回しながらカーン精肉店に向かってくる。ルシオは前掛けを外して陳列台の内側から急いで出る。敬礼して迎えたルシオの前に、部下の開けた入口を通ってアマデオ・キンケル風紀長閣下が現れた。

 アマデオ・キンケル風紀長閣下は華麗に靴底を鳴らし、滑らせ、つむじ風のように一、二、三、四、五回と回ってルシオのすぐ目の前に辿り着き、杖の柄で帽子をとった。

「同志ルシオ! これは君の店かね?」

 直立不動で最敬礼を保ったままルシオは答える。

「はい。同志アマデオ」

「いいねえ、いい店構えだねえ。残念ながら私は菜食主義者なものでね、肉の良し悪しはわからんのだが」

「はい。同志アマデオ。もったいないお言葉をありがとうございます」

 アマデオ・キンケル風紀長閣下は山高帽を被り直し、背中に渡した杖を両肘で挟んで、狭い店内を独楽こまのように回転しながら一廻り、二廻りした。

 小柄な五十五歳の最高指導者は、小ぶりの山高帽とツギハギやほつれだらけの古着の燕尾服を自らの記号としている。

「君に会うのは甥の葬式以来だが、元気にやれていたかね?」

 元の位置に戻ってきてすたたん、と靴底を鳴らし、アマデオ・キンケル風紀長閣下は言った。

「はい。同志アマデオ」

 敬礼やめの合図をみてルシオは直立不動のまま手を下ろした。

「実は君のことは気にかかっていたんだよ。甥の最期が知りたくて君にいろんな話をさせたが、かえって呵責を植え付けてしまったのじゃないかとね」

「私には同志トニオの勇敢な最期を伝える義務がありました。同志アマデオ」

「ボラジア戦は激戦中の激戦だった。死んだトニオも英雄だが、生き残った君も英雄なのだよ、同志ルシオ」

 ルシオは用心深く黙っていた。

 アマデオ・キンケル風紀長閣下の突然の訪問の理由がまったくわからない。

 もし次の瞬間に閣下の部下たちが手錠を掛けにくるとしてもルシオは驚かない。〈赤い鉄線〉はそういう組織だ。同国人に対しても、占領地の人々に対しても、党は平等に独善的な力を振るう。恐怖と抑圧に支えられた秩序。しかし〈羊の毛刈り戦争〉の泥沼化によって荒廃のかぎりを味わわされた旧帝国領の人々は、もたらされた秩序をむしろ歓迎した。

 アマデオ・キンケル風紀長閣下は上着の内から、金メッキの写真入れを取り出した。

「この店の上階にね、この方がお住まいだと聞いてやって来たんだが」

 鎖でチョッキにぶら下げられたそれの蓋をぱちんと開き、中身をルシオに向けて見せた。

「この方を知っているかね?」

 楕円の褐色写真には、白金系色の髪に花冠を飾った貴婦人が写されていた。

「いいえ。同志アマデオ」

 柔らかく微笑む美しい貴婦人に見覚えはない。

「よく見てよく見て、同志ルシオ。重要なことだ」

 そう言われても。胸元の開いたドレスを纏い、手袋に包まれた手を椅子の背に預けて佇む高貴な女性をルシオが知っているわけがない。

 そもそも〈赤い鉄線〉の支配地域に貴族は存在しない。ルシオの生きてきた世界と、こういう貴婦人の生息する世界とは隔たりがありすぎる。どこかですれ違うことさえありえない。

 そもそもこんなに美しい女性ならば、どんな格好をしていても一度見たら二度と忘れられない筈である。

「いいえ。同志アマデオ。申し訳ありません」

「この方は、〈忘れられた羊の帝国〉の最後の皇太子妃。アイネ・ヴィオロン・ユマーティク・ゴルトシャーフ殿下だ」

 アイネ・ヴィオロン……アイネというのはどこかで聞いたことのある名前だ、とルシオは思った。けして表情には出さずに。

「いま現在は、アイヴィ・ダンテスと名乗っておられる」

 かろうじて、ルシオは動揺を表にするのをこらえた。

 その代わり大袈裟に眉をひそめる。

「何かあるかね? 発言したまえ」

「はい。同志アマデオ。しかしアイヴィ・ダンテスという上階の住人は魔心屋を営む魔心師でありますが……」

「そのようだね。だが、この写真が撮られた頃、私は風紀長アマデオ・キンケルではなく、国王に召し抱えられた写真技師アマデオ・キンケルだった。〈赤い鉄線〉自体まだ影も形もなかったわけだよ。時の流れとはそういうものじゃないかね」

 どんなふうに時が流れれば皇太子妃が世を拗ねた魔心屋になるんだ。

 そもそも時が流れていない。

 言われてみれば写真の女性は“アイヴィ・ダンテスが微笑んだ顔”なのかもしれないが、三十年近く経って、魔心屋のアイヴィ・ダンテスはこの写真から一つも歳を取っていないように思える。

「着いてきたまえ、同志ルシオ」

 アマデオ・キンケルはルシオを連れて集合住宅の二階に上った。

「私はずっと妃殿下をお探し申し上げていてね。やっと。三十年かけてやっとだよ。やっと三日前に特務役人の報告を受けた。アイヴィ・ダンテスを名乗る妃殿下の住居をついに発見したと。だが役人たちは妃殿下その人を発見できなかった。部屋はもぬけの殻で、私がここへ到着するまでの三日間のあいだにも妃殿下は部屋に戻っていない」

 アイヴィ・ダンテスがいない?

 ルシオは意外に思って顔を上げた。

 毎日店の中から通りを眺めているルシオがアイヴィ・ダンテスを見かけるのは週に一、二度シュナウツの魔草屋への行きと帰りの姿くらいで、他の外出は殆どしない。ごく稀に魔心屋を訪ねてきた依頼人とどこかへ出掛けていくこともあったが、本当に稀だ。

「ここ最近、彼女を見たかね?」

「二週間ほど姿を見ていないであります」

 しかし、それも珍しいことではない。何らかの魔心術あるいはその研究に没頭しているのだろうが、大量の魔草を買い込んできて部屋に籠もりつづけるのはアイヴィ・ダンテスの日常だ。

「それが、こういうことだ」

 アマデオ・キンケルは部下が開いた扉の向こうを杖の先で示した。

 玄関先に、アイヴィ・ダンテスが外出時にいつも羽織っている黒い肩掛けが抜け殻のように落ちていた。部屋の中は足の踏み場もない散らかりようだが、それはいつもだ。

 アマデオ・キンケルは落ちている肩掛けを恭しい手つきで拾い上げ、両手に持ったそれに顔を埋めた。そのまま何度も深く呼吸する。愛煙家アイヴィ・ダンテスが身に付けていたものは魔痺タバコの匂いしかしないだろう。心を麻痺させるという魔痺タバコの効用は魔心師にだけ作用するもので、普通の人間には効かないという話だ。

 アマデオ・キンケルは恍惚とした表情で肩掛けを抱きしめた。

 泣く子も黙らないと監獄行きにされる〈赤い鉄線〉の最高指導者が。

 彼はアイヴィ・ダンテスの部屋に入っていって、感極まったように帽子を取って一礼すると、湧き出る感情をそうするしかないように靴底を鳴らして踊りはじめた。

 ひとしきり一人舞台を演じたあとで、狭い部屋の真ん中に立ち、アマデオ・キンケルは泣きだした。

 彼の部下が扉を閉めた。もう一人の部下がタバコを出し——もちろん魔痺タバコではない——廊下の壁に凭れながらルシオに「君もやるかね、同志?」と勧めてくる。「結構です。同志」「同志の店は野生肉も扱っているか?」「まあ、値頃の仕入れがあれば」「狩猟肉は今が季節だろう。猟銃は持っているか?」「いえ。同志」「俺の実家は国王の猟場の森の近くでね。革命後は森の半分が伐採されて木材になったがね。とにかく猟銃については、あの辺で育った者は皆いっぱしの目利きになる。同志にも一ついいやつを持たせてやろう」「ルシオ同志は銃なぞ要らんさ。何しろ〈流浪民〉の連中は熊も鹿も素手でやっつけて捌いちまうらしいから。なあ?」ルシオはこの雑談の流れに戸惑っていた。最後の皮肉はわかりやすかったが、タバコを吸う男が猟銃の話をした意味が全く不明だ。

「待たせてすまない、同志諸君!」

 元気よく飛び出してきたアマデオ・キンケルの前で三人は直立不動の姿勢をとる。

「同志ルシオ。特務の調査で妃殿下の住所の近くに君の名が浮上したとき、私は運命というものを感じたよ」

 勝手に思われても、ただの偶然だ。

「同志ルシオ。折り入って君に頼みたい」

 アマデオ・キンケルの黒い瞳が、〈赤い鉄線〉最高指導者の威厳をおびる。その目尻には両端にきっちり三本ずつ皺が刻まれていた。

「アイネ・ヴィオロンの行方を追い、彼女を保護し、私の元に連れてくるのだ」

 ルシオは言葉を返しあぐねて両隣の特務の男たちを見た。

 おそらく、彼らはルシオとアイヴィ・ダンテスのあいだに簡単な近所付き合いがあることを近隣住人の証言から掴んでいる。

「特務は以前からアイネ・ヴィオロンの消息を求めるため魔心師たちへの接触を試みてきたが、彼らはたいてい非協力的で逃げ足が速い。元々が余所者だし、万象教のような殉教の概念もないからね」

「畏れながら同志アマデオ。私にも魔心師の人脈はないであります」

「同志ルシオ。では私のたっての頼みを断るのかね?」

「同志アマデオ。心にもないであります」

「私は君の抱えているだろう呵責をどうしたら軽くしてやれるかと考えていてね」

 やはりそう来るわけだ、とルシオは内心で納得した。

 結局、激戦地ボラジアで同志トニオを見殺しにしたのではないかという、ルシオにずっとつきまとってきた疑いは晴れていないのだ。もしくは、晴れていないということに、いつでも出来るというのだ。

 最高指導者アマデオ・キンケルの頼みを断れる人間など、〈赤い鉄線〉の支配下には存在しない。

「ボラジア戦以前および以後の君の戦歴から言っても、これ以上はない妥当な人選だろう」

 承諾の言葉をあらためて発する必要はなかった。

 後のことを部下に任せてアマデオ・キンケルはルシオの肩を叩いた。

 杖を回して廊下を去っていくアマデオ・キンケル風紀長閣下の背中にルシオは問う。

「同志アマデオは、この地で発見された皇太子妃をどのように処されるおつもりでありますか」

 立場を考えればするべき質問ではないとわかっていたが、好奇心を抑えられなかった。

 するとアマデオ・キンケル風紀長閣下は、夢見心地のきらきらした瞳で振り返って、言った。

「決まっているよ。私の妻に迎えるのだ」

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