第二章 〈赤い鉄線〉のルシオ
深夜の訪問者
玄関を叩く音でアイヴィ・ダンテスは目を覚ました。
「真夜中に何事じゃ」
月のない夜更けだった。
「ふむ。件の堕天使でも甦ってきたかのう」
毛布代わりの肩掛けを羽織り、散らかる書物と魔草の山を踏んでアイヴィは玄関先に出た。
小さく開けた扉の向こうに、闇に溶ける黒尽くめの男が立っていた。
「魔心師アイヴィ・ダンテスの住まいで間違いないか」
氷青の瞳の色をそのまま声にした硬質な口調で男は尋ねる。
「いかにも私がアイヴィ・ダンテスじゃが」
「しかしアイヴィ・ダンテスなどという人物は存在しない。あなたの本当の名前は、————、という」
アイヴィは瞬時に蒼ざめた。
「お前は何者じゃ」
後ずさった拍子、アイヴィの掲げる燭台が揺れ、男の黒い外套の襟元に火影が映えた。
中から覗く漆黒の詰襟は、〈万象教〉の司祭を表す。今この地でその記号を見ることは絶無だ。何故なら今この地を占領する〈赤い鉄線〉は、〈万象教〉を法令によって禁止し、禁令を犯す教徒たちを徹底的に弾圧している。
「私はエディット・ヴァルノス上級司祭。兄弟姉妹を代表してあなたを迎えにきた」
男はアイヴィが退いたぶんの距離に踏み込み、強引に扉を押し開いた。
「何の用で……いや、ろくな用事ではなさそうじゃ」
身の危険を感じるなりアイヴィは〈意識語〉を詠唱した。
男は素手の薬指に嵌めた銀の指輪を口元に近付け、アイヴィの瞳を見据えたまま幾つかの言葉を呟く。それは〈聖言〉と呼ばれる神の言葉だ。
とたんにアイヴィの詠唱がとぎれる。
彼女の身体は金縛りにあって自由を奪われた。
「活性化した精霊をけしかけて頭に侵入させ、私を惑乱させようとしたのだろう。だが魔心術は、神の言葉の前で無力だ」
アイヴィに僅かに許された自由の領域——思考のすべてが驚きで染まった。
神の言葉の前で魔心術が無力?
そんな仕組みは聞いたことがない。それは絶対の法則ではない。感性のないものが聖言を用いたところで、まじない程度の効力もない。
単に今、アイヴィの魔心術をこの男の聖言の力が上回ったというだけだ。
「あ——」
魔心を滾らせて試みた必死の抵抗も、再び呟かれた聖言によって封じられる。
呼吸の結果が声に結びつかない。
男は黒染めの布でアイヴィの顔を覆うと、肉の人形となった彼女に袋をかぶせて抱え上げた。
男は、そして静かに階段を降りていった。
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