この世界の敵

 燐寸の火を翳された令嬢シュマイラ・ネーの瞳の中で、瞳孔が正常な動きを示す。

「あちらがわの異景にあてられて今は正気を手放しておるが、時間が経てば徐々に元通りになるじゃろう」

 令嬢はこの部屋に放り出されてから程なくして目を覚ましたものの、記憶に混乱があり、まなざしの焦点も合わないような状態だった。

「今は家に帰してやることじゃ」

 そのとき大家の寄越した小僧がアイヴィ・ダンテスの部屋の玄関を叩いた。

 周辺住民たちもそろそろ朝の活動を始めて、表のゴミの苦情が集まる時間になったのだ。アイヴィ・ダンテスの部屋の残念な使われ方は大家も知っているから、まっさきに犯人を疑われるのはしょうがない。

 ルシオは玄関から出たところに、震えながら蹲っている従者を見つけた。

 彼はルシオとともにアイヴィ・ダンテスの魔心術に巻き込まれ、術が解かれて令嬢が青いドレスの女に変化した時点で、その場を逃げ出したのだ。

 アイヴィ・ダンテスは、こちらはこちらで混乱している従者に子細を言い含め、午後にでも令嬢を馬車に乗せてドードリアへ送り返すことにした。

 アイヴィ・ダンテスは、堕天使との戦いと師匠ミハとの対峙によって疲労困憊しているようにルシオには見えた。

 肉体というよりは心——酷使し、ミハの介入でむりやり凍結させられた魔心の後遺症が、彼女に休息を必要とさせているような気がした。

「表のゴミの始末は俺がやっとくよ。あんたはちょっと休め」

 小僧を大家の元にとんぼ返りさせた玄関先で、ルシオは言った。

「ふん。お前は年甲斐もなく、ずいぶん丈夫じゃな。あれだけ首を絞められていて何故ぴんぴんしとるんじゃ」

 齢がどうのこうのはやめろよ。

 ルシオは一応ボヤいてから、肩に手を当てて首の筋を解すようにした。

「慣れてるんだよ。軍隊でな」

 アイヴィ・ダンテスは煤けた灰色の壁に囲まれた狭い部屋の真ん中にぽつんと佇んでいる。

 この殺風景な部屋で、アイヴィ・ダンテスはちゃんと眠れるのだろうか?

 あれほどの怒りを抱えたままで。

「今日も明日も魔心師の心が健やかならんことを、だな」

 シュナウツの魔草屋でよく聞く魔心師向けの挨拶を投げたらすかさず、不機嫌そうな声が返ってくる。

「私は魔心師ではない。魔心屋じゃ」

 玄関扉に手をかけたところで、ふと考えてルシオは首を傾げる。

「なあ、あいつ——ミハとかいう、あんたの師匠。結構いい奴なんじゃないか?」

 わざわざ令嬢シュマイラを送り届けてくれた。……ということは、あのミハという魔心師の青年が、〈むこうがわ〉の世界に放り出されて彷徨っていた令嬢シュマイラを偶然か必然か救出し、保護してくれていたということだろう。

「はっ。肉屋よ、お前は肉の目利きだけしていたほうがよいぞ」

「痴情のもつれか?」

 九分九厘そういうものじゃないことはわかっていたが、若い男女がそこまで拗れる理由も他には思いつかない。

「阿呆が。あれを相手に心臓のときめいた覚えが微塵もないわい」

 婆風味の喋りにのっかったときめきの言葉にちょっと笑ってしまいながらルシオは部屋を後にした。

 閉まる扉の隙間から、憎悪と恐怖を魔心の内側でぐちゃぐちゃに混ぜて絶望の闇色で割ったようなアイヴィ・ダンテスの重い呟きが聞こえてきた。

「奴は、この世界の敵じゃ」



× × × × ×



 秋の月夜の下でアイヴィ・ダンテスは水盤に煙を吹きかける。

 澄んだ水に渦が生まれ、底を貫く旋刃となって、ここではないどこかへつながる通路を穿つ。


——どこだ。どこだ。どこだ。どこにいる?


 追跡の儀式。

 真鍮の水盤、これだけは壊れずに残った。選り分けられた表のゴミの山から拾ってきたそれ一つだけが、今はアイヴィ・ダンテスの部屋を埋めるものだ。

 アイヴィ・ダンテスは来る日も来る日も、窓の下で水盤を操作しつづけている。

 窓。

 令嬢を送り返した次の日に、階下の肉屋のルシオ・モニークがまたぞろ訪ねてきて、割れた窓硝子をすべて嵌め替えていった。俺が砕いた硝子なんでな、などと肉屋はすまなそうに言っていた。それは正確ではないような気がしたが、ともかくも夜までに窓が塞がり、吹き込む風が〈魔草〉を燃やす炎に干渉することも、風に乗ってくるそいつらが魔草の煙に酔って水盤に次々と身を投げて溺れ死んでいく煩わしさもなくなった。

 ルシオ・モニークは令嬢が本当に回復できるのかどうかをまだ気にしているようだった。〈むこうがわ〉の影響はすぐに抜けていくのかもしれないが、目の前で恋人が喰われた衝撃と心の傷はどうなんだろうか。気丈に魔心師を探し出して安住宅の階段を上がってきた令嬢は堕天使が化けていた偽物で、本物のシュマイラ・ネーではない。

——それは、まあ、どうじゃろうのう

 アイヴィ・ダンテスは窓の修繕作業を眺めて魔痺タバコを燻らせながら、答えてやった。

——あの堕天使は人間の真似をしたがるからのう

 そうか、と、ルシオ・モニークは言った。

——じゃあ、そうなんだろうな

 素直かつ素朴に、あるかないかの小さな希望を飲み込むように。

 どうもあの肉屋は変わっておるな、とアイヴィは思う。

 薄汚れた下町のただの肉屋にしては、変わっている。

 アイヴィ自身が周囲からどう見られているかは遥か高みの棚に上げて、つかのま彼女の魔心は呆れ笑いの心地に染まった。

 魔心術の心得も感性も全くないようなのに、幻惑の豪邸探索も堕天使の出現もあるがままに受け入れて他人の心配をはじめる人間は珍しい。

「いちいち近所の魔心屋の小間使いを引き受ける義理もないはずなんじゃがな」

 アイヴィ・ダンテスはすっきりした床に転がって、魔痺タバコの虹色の煙をふうっと吐いた。

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