ミハ
とん、と象牙の杖が床を突いた。
「よくないね、本当に」
最初から何もなかったように、嵐がやんだ。
いや、違う。
嵐は凍りついて静止していた。
《ミハ》
狂喜の叫びとともに堕天使はふわりと天井まで飛んだ。
前触れなく現れた男が、連れてきた娘の手を放す。茶色い髪を振り乱した娘は、少し痩せているが、令嬢シュマイラに瓜二つだ。
目を閉じていて意識のない娘が床へ倒れる。
寸前に拘束の解けていたルシオは息を整えるより先にその身体を受け止めようと動いた。
腕の中に人間の重みが落ちてくる。
《ああ、ミハ》
両手を広げて舞い踊る堕天使を、優しげな青色の瞳で仰いでミハは言った。
「堕天使。今はまだ君には会えないんだ」
ミハの煤けた灰色の髪は床を這うほどに長い。
足元は裸足で、洗いざらしの藍色の脚衣に白麻の
厳めしく仰々しい象牙の杖さえ手にしていなければ、画家の工房に集う変わり者といった説明で通りそうな若者だった。
「君が君なりの道を辿って〈意識〉の解に達したら、そのとき一緒に答え合わせをしよう。僕の方から会いに行くから」
《いいえ、ミハ》
堕天使の叫びを聞かずにミハは象牙の杖を揮った。
無言のうちに術が発せられ、穴だらけだった堕天使の身体を見えない力が吹き飛ばす。
千々に裂かれ、塵ほどの片鱗も残さずに堕天使は霧散した。
断末魔の猶予もなく。
消えた。
「己自身が願ったとしても堕天使は消失を許されない存在だ。多少の時間はかかるだろうが、あれはまた己を集めて復活するよ」
床に落ちていた透明な珠を、ミハが拾い上げた。
それは堕天使が四散のきわに落としていったものだ。
「くそ師匠……」
小娘に出せる限界まで低く歪めた声を、アイヴィ・ダンテスが凄まじい形相から発した。
「ああ、これは誰かの……きっと君に関係があるものだよ。アイネ」
窓に向かって翳した珠を、片目で覗きながら、ミハは言った。
それからミハは振り返り、透明な珠をアイヴィ・ダンテスに渡すために歩み寄った。
「くそが」
差し出された珠を見もせず、アイヴィ・ダンテスはミハの手を凶暴に払う。
しかしアイヴィ・ダンテスの平手はミハの手を叩くことができなかった。
あるはずの手をすり抜け、拒絶の意志は空を切った。
「貴様はここにはいない。そんなことは私はお見通しなんじゃ」
アイヴィ・ダンテスが向ける憎しみの前で、ミハは部屋のあちこちに首を巡らせると、顔をしかめた。
「嫌なにおいがする。こんな所には来られないよ。アイン」
方向転換して彼はルシオに珠をさしだした。
水晶のようだった。
傷や曇りが一切ない、純粋な水晶だ。
他には何の情報もない。
何も言わずにミハはルシオにそれを渡した。
「じゃあこれで失礼するよ。アニー。元気で」
前触れなくミハは消えた。現れたときと同じように。
ここに存在していないのだとアイヴィ・ダンテスは喝破したが、信じられなかった。彼は確かにそこにいてルシオに水晶珠を渡したではないか。そのすべてが幻影であり、遠隔からの操作だったというのか?
怒りに潰れた喉からひゅうひゅうと息の音をさせて、アイヴィ・ダンテスが呻く。
「いつか近いうちに必ず貴様の居所をつきとめて殺してやる。絶対にじゃ。湖の盟約を破った罪は贖わせてやるからな」
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