堕天使襲来

「お嬢様? シュマイラお嬢様? いかがなさいましたか——」

 女中の心配そうな声が遠のいていき、景色がアイヴィ・ダンテスの燻らせる七色の煙に塗りつぶされて歪んだと思うと、ルシオは殺風景な狭い部屋の中に立っていた。

「堕天使……」

 ぞっとする笑みを浮かべてアイヴィ・ダンテスが呟いた。

 充満する異臭に咳き込んでルシオは窓を開けにいった。外気に首を突き出して深呼吸する。喉をいがらっぽくする灰色のもやは暖炉で焚かれて燃え尽きた〈魔草〉の放つ残滓だ。

 薄れてゆく灰色のもやの中から、青いドレスの女が現れた。


《ふ……ふふ……》


 色のない顔に血の色の瞳を光らせて女は笑っている。

「お前に会うのは三十年ぶりじゃな、堕天使」

 掠れた声を絞りながらも、明らかにアイヴィ・ダンテスは昂ぶっている。後ろから彼女の背中を見ているルシオは戦場の経験をよみがえらせて危機感を持った。こういう昂ぶりは兵士の命を奪う。我を忘れた瞬間に〈死〉の天使の剣が敗者の魂を刈る。

 よくねえな。

《あなた。ヴィオロンの湖の娘。ねえ。ミハを知らない? ミハはどこにいる?》

「私も探しているんじゃが、おいそれと尻尾を掴ませる師匠ではないからな」

《知らないの? じゃあミハに会えないの? そんなわたしはどうしたらいいの?》

「お前は、ミハを喰いたいのか?」

《いいえ、わたしはひとつになりたいの》

「お前がミハを喰って奴を殺せるならば、喰わせてやりたいのはやまやまなんじゃがのう。だがその前に、私がお前を始末しなきゃならん因縁の件もあるんでな」

 アイヴィ・ダンテスは咥えていた魔痺タバコを吐き出した。

「私に堕天使を始末できるくらいの実力があるならば、クソ師匠を殺すこともできるかもしれんということになる。もしも私がお前に負けたらばお前が頑張ってクソ師匠を願いどおりに探し出し、殺してくれればよい」

 「おい」とルシオは背後から声を上げた。

「平和な話じゃねえな、アイヴィさんよ」

 聞こえたのか聞こえていないのか、アイヴィ・ダンテスは身体の奥に秘めた殺気をそのままに俯いて、靴底を吸い殻に擦りつけた。

 心を麻痺させるタバコを捨てたということは、魔心のタガを外したに等しい。

 堕天使と戦う気だ。

「だがその前に確かめておこう。お前は帝国皇位継承者の噂を聞きつけてネー財閥の邸宅に侵入し、男を喰った。そうじゃな?」

《そう》

「そこへ悲鳴を聞きつけたかして令嬢シュマイラが秘密の通路を通って入ってきた。そのとき、お前は令嬢シュマイラと入れ替わった。令嬢シュマイラを喰ったのか?」

《いいえ》

「〈むこうがわ〉に追いやったんじゃな。可哀想にご令嬢は〈むこうがわ〉で彷徨いつづけて餓死するしかなくなったじゃろうよ」

 アイヴィ・ダンテスは少しだけ首を傾けてルシオを顧みた。

「令嬢になりすました堕天使が、広大な邸宅の中で出入りした部屋はほんの一部じゃ。あの階では男と令嬢の部屋のぐるりと廊下だけ。ゆえに他の部屋の中身は虚無じゃった」

 ルシオは混乱しそうな頭を片手で押さえながら考えていた。

「ということはだ。だったら。つまりだな。それはそうだよ」

 そう、若い女中はルシオの顔を見てお嬢様、と言った。

 令嬢になりすまして入れ替わった堕天使が、令嬢の部屋から廊下へと出てきたところに女中は声をかけたのだ。

「俺たちがいたのは堕天使の記憶の中ってことか」

「いやいやいや。惜しいんじゃがな。私たちがいたのはずっとここさ」

 額を押さえつつ頭を捻っているうち、かすかな痛みを感じる箇所に指が触れた。

 窓硝子に映してみると、生え際に痣ができている。

「俺はこの部屋でぐるぐると歩き回っていただけか。間抜けに頭をぶつけながら?」

 それもこれもアイヴィ・ダンテスの魔心術に偶然、巻き込まれたせいで。

「巻き込まれついでに言ってやるがな、アイヴィ」

 窓硝子に映る堕天使の作りものめいた微笑みに、アイヴィ・ダンテスの詠じはじめた〈意識語〉の響きが重なる。魔心とやらを解放しようとしているのだ。魔草を焚かずとも、ぞっとする笑みの奥にわななくアイヴィ・ダンテスの凄まじい怒りと憎しみが、精霊たちを、そいつらを、今ならば嵐のごとき力で揺り動かすだろう。

 ルシオは振り向きざまにアイヴィ・ダンテスの腕を掴んだ。

「勝算のない戦いならやめておけ」

 驚いたように顔を上げ、アイヴィ・ダンテスはルシオに向かって舌打ちした。

「お前には関係ないんじゃ」

 だが、ルシオのような素人にもわかる、

 堕天使。元々それは〈神〉に仕えていたものだという。いくら魔心師でも、人間に対抗できる相手じゃない。人間を頭からばりばりと喰らう食欲と意志を持った天使など。

 たとえ大切な人間を殺された怒りと憎しみが、どんなに大きかろうと。

「この堕天使があんたの代わりに表のゴミを掃除してくれるっていうなら話は別だがな」

「肉屋よ、邪魔をするなら今すぐゴミのように表に飛ばしてやるだけじゃ」

「待てって。あんたは五分五分の勝負に賭けてるみたいだが、相手のほうは負けると思ってない。俺なんかに何故それがわかるかって?」

 ルシオはこの安住宅の階段を上がってくる令嬢の姿を思い出して言った。

「先手を仕掛けてきたのは奴のほうだ」

 アイヴィ・ダンテスがはっと碧色の瞳をひらく。

 堕天使は、令嬢シュマイラになりすまして、わざわざ魔心師アイヴィ・ダンテスを訪ねてきた——。

「そういえば、ちゃんと訊くのを忘れておったな。お前、ここへ何をしにきたんじゃ」

《ミハに会えるかもしれないから》

 血の色の瞳を爛々と輝かせて堕天使が謳う。

《あのときみたいに》

 堕天使のドレスの青い袖から、白い手がしなる鞭のように長く伸びる。

 ルシオはとっさにアイヴィ・ダンテスを突き飛ばした。踏み込んで位置を入れ替わったルシオのくびを堕天使の慈悲のない手が締め上げる。ルシオは携帯していた小さな荷解きナイフで堕天使の手を切り裂く。——一滴の血も出ない。その肌は飴細工か何かのように刃をねっとりと包む。

「……よくねえな」

 左右にたゆとう腕の反動によってルシオは窓硝子に叩きつけられた。

 砕けた硝子が路地に落ちていくのが見える。

 窓枠の残骸を震わせて暴風が吹いた。

 〈意識語〉の詠唱を完成させたアイヴィ・ダンテスの魔心に風が共鳴し、堕天使のまわりで躍り狂った。

 ルシオには視えないそいつらの群れが、堕天使を右から左から食いちぎってゆく。

 それこそ、ゆるい飴の塊を鋏か何かでちぎってゆくように。

《ヴィオロンの湖の娘》

 蜂の巣状の穴だらけになりながら堕天使が、アイヴィ・ダンテスの近くに滑り寄って、あっという間に壁際に追いつめた。まだ窓枠に押さえつけられたままのルシオは堕天使の手を喉から毟ろうとしたが、外れない。

 あいつ、わざと……。

 アイヴィ・ダンテスはわざと、そいつらに堕天使の手を喰わせない。ルシオに戦いの邪魔をさせないためだ。

《あなたに会ってもミハに会えないなら。あなたを食べれば。あなたの記憶の中のミハに会えるわね》

 堕天使は片手を優雅にアイヴィ・ダンテスの頬へと添えた。

 堕天使は色のない唇をぱっくりと開くと、透明な牙を剥き出しにする——。

「やれるもんならやってみるんじゃ」

 ちゃぽんと、水の音がした。

 水なんてどこにもないのに。

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