犯行現場にて

 十一枚目の扉まで、ルシオは開けるたびに同じ驚きを味わった。

 アイヴィ・ダンテスの言った通り、扉の向こうにはぽっかりと虚無の闇の口が空いていたのだ。

 廊下を照らす華燭電灯の明かりを貪欲に呑み込んでしまう、無反射の闇が。

 ——落ちても死にはせんがな。ちと面倒じゃから確かめるのはやめておくんじゃ

 忠告されなくても飛び込んだりはしない。三十五歳はぎりぎり青年だとはいえ、無鉄砲な若者じゃない。

「どうなってるんだ、この邸は」

 十二枚目の取っ手に手をかける——。

 音も立てずに、初めてすんなり扉が開いた。

「これは……」

 扉の先には、ルシオにとって今日いちばんの驚愕の景色が待ち構えていた。

 腕の下からひょっこりと頭を出したアイヴィ・ダンテスが、中を覗き込んで訝しげに言う。

「何を驚いておるんじゃ。ここは普通の部屋じゃ」

「とんでもねえぞ。どこが普通の部屋だよ。豪邸にも程があるだろ!」

「普通の豪邸じゃな」

 しけた魔痺タバコを咥えて部屋の中に滑り込んだアイヴィ・ダンテスの後をルシオは着いていく。用途で言えば数人の人間が談笑するだけの部屋なのだろうが、費用対効果に疑問符しかないほど金がかかっている。目に付くところでも、付かないところでも、至る所から蕩尽された金の唸り声が聴こえる。と思ったら自分がわけもなく唸っているだけだった。天井に絵なんかびっしり描いたって、描く画家も見上げる客も首を痛めるだけじゃないか。

 咥えタバコでアイヴィ・ダンテスがすたすたと歩いてゆく。邸宅の屋根裏に棲みつく毛深いネズミどもよりも場違いでみすぼらしい服を纏っているが、いささかも気後れする様子はない。

 奥の扉の向こうにも部屋があった。

 肉のあいだに探し当てた豚の腸管を引きずり出すように、後はするすると部屋がつながってゆく。

 八部屋目で寝室に辿り着いた。

「おそらくここで令嬢の男は堕天使に喰われた」

「男……」

 未婚の令嬢を醜聞に晒すごとき物言いにルシオは赤面しかけた。「滅多なことを言うな。いよいよ摘み出されるぞ」

 しかも、喰われたとはどういう——。

「堕天使?」

「私の知る堕天使は人間を喰うんじゃ。頭からバリバリと豪快に喰うぞ。ああいう喰い方をされては解体が仕事の肉屋も出る幕がないのう」

 アイヴィ・ダンテスの飄然とした顔つきからは、冗談を言っているのか本気で知識を披露しているのか判別できない。

「その男はなぜ堕天使とやらに喰われたんだ?」

「男は〈忘れられた羊の帝国〉の皇位継承権を持つ人間だったからじゃ。いや、本当のところ、そいつが真に皇帝の血筋だったかどうかはわかりゃせんがの。堕天使もとりあえず喰ってみねばわからんゆえに喰ったのじゃろ」

「待て、待て。それは政治の話をしてるんじゃないのか? なのに、どうにも食道楽の話みたいに聞こえるんだが」

 〈忘れられた羊の帝国〉の血筋の人間ならば、殺される理由は九割九分政治的暗殺に決まっているだろう。堕天使というのは暗殺者の比喩ではないのか。

「政治の話などはしておらんよ」

 政治の話でないならば、魔心術に関わる異世界むこうがわそして異世界むこうがわのものたちの話だろう。

「その堕天使ってやつは皇位継承権を持ってる人間の肉が好物なのか?」

「少なくとも、あの堕天使に私の目の前で喰われた人間も皇位継承者だったでな」

 ルシオは一瞬、言葉を失った。

 表情も声音も厭世的なまま変えずに、さらりと凄いことを言わなかったか、この魔心屋は。

「それはいつの話だ?」

 〈忘れられた羊の帝国〉はすでに失われて戻らないゆえに〈忘れられた羊の帝国〉というおくりなで偲ばれているのだ。一般庶民のルシオでもわかることとして、皇位そのものが今は存在しない。皇族の血筋が亡命に成功したという話も聞いていない。

 この三十年弱のあいだ、その存在は噂の域を出ない幻だ。

「そこまでは言いたくないのう。齢がバレるじゃろうが」

「勿体つけるほどのことなのか?」

「さすが、その齢まで嫁の来手がなかった男は神経が一本足りないようじゃの」

 一撃必殺の皮肉を吐いてアイヴィ・ダンテスは膝から寝台に這い上った。

 色柄の褪せた婆風味の服の裾から、健康な若い娘の脚が剥き出しになり、ルシオは思わず目を逸らした。やはり、こんなに若い娘が在りし日の帝国の時代に生きていたはずはない。

 しかし毒々しいまでに浪費の主張の眩しい寝室にも目のやりどころがない。噎せかえる金の無駄遣いの匂いに悪夢を見続けそうな豪華絢爛さだ。

「皇帝の寝台でもこうでかでかと金銀細工の羊の紋章など埋め込んでおらんじゃったぞ。成金のネー財閥らしいことじゃが」

 もぞもぞと這いずって何をしているのかと思えば、アイヴィ・ダンテスは枕の下から一すじの髪の毛を見つけて摘まみ上げた。

「ううむ」

 小難しげな顔で考え込んだ。

「アイヴィさんよ」

 手持ち無沙汰なルシオは頭を掻きながら控えめに声をかける。

「そこの時計塔がずれておるじゃろ。裏に隠し通路がないか確かめるんじゃ」

 右奥の壁際に置かれた太った金ピカな大男のような時計塔は腹部が万年暦のカラクリになっており、胸部では陶磁器人形による万年舞踏会が開催中だ。ルシオはその裏側へ回った。絨毯にずらされた跡がある。時計塔は片側が壁からいくらか離されている。後ろの壁には大人が出入りするには窮屈きわまりない小さな扉があった。その扉は時計塔の裏にぶつかったまま開かれていた。急いで人が通り抜けた後のように。

「あったぞ」

 ルシオは時計塔を動かして扉を全開にした。

「でかい図体が詰まったら尻を蹴飛ばしてやるゆえ、安心してくぐってみい」

 いつのまにか真後ろで待機しているアイヴィ・ダンテスに急かされてルシオは隠し扉を通り抜けた。

 小さな燭台が一つだけ置かれて足元を照らす、狭い通路が続いていた。

 不思議なことには、これまで通り抜けてきた部屋のいずれも電燈が点いたままだった。

 住人が異界のものに喰われていなくなったというなら、その一連の部屋は閉めきりになっているはずだ。

 通路の行き止まりの小さな扉を開けると、またもや寝室に出た。

 だがその寝室はあきらかに女性を主人とする雰囲気のものだった。

「こいつはまずいぞ、アイヴィさんよ」

「令嬢の寝室じゃな」

 牛や豚や鶏の皮を赤裸々に剥いて内臓を捌いていくのは得意だが、上品な人々の秘密の生活を覗くのはぜんぜん好みじゃない。

 居心地悪く目の焦点をボカしはじめたルシオを、わざと追い込むようにアイヴィ・ダンテスが語る。

「ネー財閥は、〈忘れられた羊の帝国〉の皇位継承者と名乗る男を保護し、邸に隠して支援してきたそうじゃ。令嬢シュマイラは男について、わたくしの愛しい方であると言っておった。この隠し通路と寝室の配置から推測するに、つまるところ、その恋心は親の意向に沿ったものでもあったんじゃろう」

 〈忘れられた羊の帝国〉は三十年前、皇太子を暗殺されて失った。それが〈忘れられた羊の帝国〉が消失した経緯の発端だ。皇太子妃を迎えたばかりの皇太子には子供がなかった。他の直系子孫は国内におらず、周辺国にまたがる系図の上で継承権を主張し合ううち、諍いはこじれて国同士の戦争に発展する。のちに〈羊の毛刈り戦争〉と呼ばれる戦争——これが収束せぬまま、当時急速に勢力を伸ばしつつあった〈赤い鉄線〉が交戦中地域の大部分を呑み込んだ。

 〈羊の毛刈り戦争〉の半ばで皇帝は病没し、以って六百年の大陸中央部支配を誇った帝室は断絶した——と、公式の歴史には記録されている。皇位継承者を主張する人物が次から次へと現れたが、〈赤い鉄線〉に捕まって処刑されるか、誰が見ても狂人との烙印を押されて病院行きとなるか、海の向こうの新大陸で帝国再興資金を集める詐欺師と化して消えるかのいずれかであった。

「普通に考えれば帝国の皇位継承者が、王侯どころか爵位も持たない家の娘と婚姻できるはずもないんじゃが、それはそれ、成金財閥の浅知恵が働いておるんじゃろうな」

「貴賎結婚ってやつか」

 王族は、王族としか結婚しない。

 貴族は、貴族としか結婚しない。

 庶民は庶民同士で所帯を構えていればいい。

 母国を持たない〈流浪民〉には、一夫一妻という神から与えられた道徳観念すらない。

「難しい言葉を知っておるのう」

 見えない障壁を超えてしまった男と女には碌な未来がない。

 まして、その間に産み落とされたガキには。

「飲んだくれの賭博やくざのどこが貴かったんだか知らねえけど」

 育った孤児院の司祭がよくルシオに言った言葉だ。お前は貴賎結婚のかわいそうな犠牲者だと。異教徒の血は聖言と正しき鞭の力でしか矯正できない、と。

 その司祭も、間もなく〈赤い鉄線〉の起こした革命で吊るされてしまった。

「アイヴィ。それじゃ、令嬢の依頼っていうのは……」

 無駄なことを口走った気まずさを消すために、ルシオは本題を引き戻す。

「消えた男を探してほしいと言うんじゃが、そいつは無理じゃな。男はもう喰われて死んでおる」

「じゃあ、無駄足ってことか。下手すると帰りの汽車代も出してもらえねえな」

「どのみち、私は金は取らんがな」

 アイヴィ・ダンテスは令嬢シュマイラの寝室には長居せず、次の部屋への扉を開けた。

 報酬を取らないと言ったアイヴィ・ダンテスにルシオは疑問の眼を向ける。

 金を稼がずに、どうやって食べていくというのだろう。

「他の魔心師も全部そうか?」

「さあな。他人のことは知らんわ」

 さっきまでとは逆の順に、寝室からつづく支度部屋、三つの居間、二つの客間を通って、最後に二人は廊下に出た。紺色の絨毯に白い壁。天井には等間隔の華燭電灯。おそらく元いた廊下……であろうと思われる。この邸宅の上下左右のあちこちに同じような廊下があるとしても。

 さっきとは反対側の曲がり角から、さっきと同じ女中が現れて歩いてきた。

 清楚なお仕着せに身を包んだ若い女中は、歩きながらさっと廊下の端に寄り、二人のそばまで近づくと立ち止まって一礼した。

 ゆっくりと姿勢を戻すと、女中はルシオの顔を怪訝そうに見つめた。

 一礼しているあいだに通り過ぎるだろうと思っていた相手がいつまでもその場所から去らないのを、不思議に思ったらしい表情で。

 女中はルシオに向かって控えめに首を傾げた。

 そして言った。

「お嬢様、どうかなさいましたか?」

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