アイヴィ・ダンテスの建物探訪

「——何だ、あの音は」

 そのとき階下で目を開けたのは、魔心師の部屋の真下が仮眠部屋となっているルシオ・モニークだった。仮眠部屋とは言っても、ルシオは開店準備の頃から今までずっとこの部屋で寝起きしている。店舗の奥の住居にはカーン精肉店の前の持ち主である老夫婦が住み続けているからだ。

 軍人時代の習慣で、おかしな物音にはすぐ反応できる。

 上階で巨人が徒競走しているらしき大きな音が数回したが、すぐに収まった。

 ルシオは起こした半身から毛布をとりのけ、床に足を投げ出した。時計は夜明け近く、ほとんどいつもの起床時間と変わらない。

 天井をしばらく見ていたが、あれっきり何の気配もない。上階が老人の一人暮らしだったら心配で声をかけにいくことも考えるが、アイヴィ・ダンテスはばばむさい雰囲気で売っているとはいえ、どうしたって若い娘だ。若い娘には、まあときどき無茶に暴れたいこともあるだろう、いろいろと、夜中だろうと。

 大あくびで緩んだ顔を下から上に手のひらで擦りながら仮眠部屋を出る。

 額は五年前よりわずかだが確実に面積を増した。気がする。

「しかし、まだまだ三十五。四十までは青年だ」

 明けきらない早朝に店の前の通りを端から端まで清掃するのがルシオ・モニークの日課だった。

 界隈の住人にとって、ルシオはただの余所者というのではなく〈赤い鉄線〉という占領者の一員だ。軍を除隊して一般人になったルシオにそんなつもりはなくても、占領者と非占領者の意識は誰の頭からも拭いがたい。

 本当を言えばルシオは〈赤い鉄線〉の中にいても生まれつき余所者の烙印を押された人間だったのだが、ここでその意味は余所者の一語に集約されるだけだ。言い訳として機能するわけじゃない。

 ならば行動あるのみ。

 いい肉屋だと界隈から信頼される肉屋であればいい。

 店の営みに関しては、老夫婦が築いた方法論をそのまま受け継ぐだけで充分だ。三年経った今でも老夫婦から仕入れや加工に助言をもらうことはあって、ルシオは地道にカーン精肉店の看板を守りつづけている。

 通りの清掃の後は、倉庫の一頭肉を解体した。この時間帯は日によっては仕入れに出かけるか、週に三度は白腸詰を作って茹でる。豚挽肉の白腸詰は足が速いので朝つくって昼までに売り切らねばならない製品だ。保存用の腸詰や練り物づくりは閉店から夜にかけてを当てている。

「魔草屋じゃ胡椒も薄荷も売ってなかったなあ。ぜんぶ雑草にしか見えんが、いったい何に使う草なんだ、あれは」

 今日は切れかけている調味料を調達しにいく必要があった。人を一人雇う余裕はまだない。

 陳列台への品出しを済ませ、店を開けるため黒板を携えて表へ出た。

「ああ?!」

 掃除したばかりの道に、巨人に踏み潰された家具とゴミとガラクタをさらに細かく千切ったモノが散乱していた。

 神の見えざる手が大胆に胡椒で味付けしたように、うずたかく暖炉の灰をまぶされて。



「アイヴィ! アイヴィさんよお!」

 魔心屋の住居の玄関を拳で叩きながらルシオは大声を張り上げた。

「通りのあのザマは何のつもりだよ! あれ全部あんたんとこで見たガラクタだぞ!」

 数十回目の拳で扉が開き、中から顔を覗かせたのは昨日この部屋を訪れた令嬢の従者だった。

「あんたは……」

 いましがた目に焼き付けたごみの山の向こうに今朝もそういえば馬車が停まっていたが。

「静かに願います。ただいま令嬢の依頼に応えていただいている最中」

「依頼?」

 ルシオは従者の頭越しに部屋を覗いた。

 奥の窓まで平らかな床を見渡せる、ぽっかりと物がない部屋がそこにあった。

 枯れ草の束の燃えさかる暖炉の前でアイヴィ・ダンテスが、向かい合う令嬢の眉間に人差し指を突き付けていた。

 指先から、鏡を溶かしたような銀色が滴る。放射状に光が迸る。拡がる閃光がルシオの視界を灼いた。

 腕に顔を庇い、眼裏で感じる光の収束にふたたびルシオが眼を上げると、辺りの景色が変わっていた。

「は……?」

 どこだ、ここは。

 どこの豪邸の廊下だ?

「お前まで着いてきおったのか、肉屋」

 元の部屋よりも幅の広い廊下の真ん中でアイヴィ・ダンテスがルシオを振り返った。

「一歩も着いてってねえよ。おいおいアイヴィさん、どういうことだよ……」

 ルシオは後ろを振り向いて、濃紺の絨毯の廊下がまっすぐ彼方までつづいている現実に息をのんだ。

「嘘だろ」

「魔心術で跳んだんじゃ。ご令嬢、お主の屋敷で間違いはなかろうの?」

「はい」

 令嬢はその場でくるりと回って懐かしの我が家を確かめる。

 柔らかな外套の裾がひるがえり、漂う〈魔草〉の香を攪拌した。

「汽車に乗らずに帰ってこられるだなんて」

「汽車に乗らないと帰れねえのかよ……俺の店はどうなるんだよ」

 開店用の前掛けの端を握りしめて呆然と呟くルシオを、アイヴィ・ダンテスが厭世の表情で一瞥した。

「だいたいお前は何の用じゃ、肉屋のルシオよ。私の繊細かつ大胆で芸術的価値さえ備えた魔心技の世界に断りもなく侵入しおって」

「だから表のゴミの件だっての。店舗前があの有様じゃ俺の商売上がったりだろうが」

「ああゴミか。ちょっと邪魔でな」

 元から半眼気味の瞳をさらに細めてアイヴィ・ダンテスは悪びれずに言った。

「今朝がた目覚めると部屋中がしていたんじゃ。これから客が来るのに困ったもんじゃった。〈むこうがわ〉に押し込んでもよかったが、そろそろ精霊から『ガラクタ置き場にするな』と苦情が出ておるし、もう使えんゴミの山だしのう。それで、そうじゃそうじゃ朝のうちに道に捨てれば丁度いい掃除屋がうろちょろしておるではないかと思いついたんじゃ」

 その銀色の柳眉が片方だけ持ち上がる。

「しかし全ては結び目がアホみたいに固かったせい、つまりお前のせいじゃ」

 ルシオは唖然とした。

「深刻に意味がわからねえ。あんたは悪魔か、世の中を全く知らんお姫様か?」

「当たらずといえども遠からず、といったところじゃの。私は魔心屋じゃ」

 アイヴィ・ダンテスは令嬢に手で合図した。

「男が消えた部屋に案内するんじゃ」

 令嬢の従者がルシオの横をすり抜けて露払いに立つ。

 令嬢はその後から「ではこちらへ」と微笑んで、魔心師を邸宅の奥へ導いた。

 令嬢の背中を見つめて腕組みしながら、しかしアイヴィ・ダンテスは一向に歩き始めようとはしない。ルシオは不審に思った。令嬢は絨毯をふわふわと歩いて曲がり角を折れてゆく。客といえども雇い人は下々の世界の者であるから、令嬢はこちらを丁重に振り返ったりはしない。

「おい、迷子になるぞ」

 ルシオはアイヴィ・ダンテスに近づいて声を落とした。

 彼を振り向いてアイヴィ・ダンテスが軽く眉を上げる。

「おや。俺を元に戻してくれと喚いたりせんのじゃな」

「俺がいま一人で戻ったって、眼前のゴミを片付けたいというまっとうな人間としての俺の本能と一分一秒戦わなきゃならなくなるだけだ。あのゴミだけは、あんたにカタを付けてもらう。あんたと一緒に戻らないと二度手間なんだよ」

 アイヴィ・ダンテスは壁際に寄って、いちばん近くの扉の取っ手に片目をぐっと近づけた。

「ルシオよ。お前、この邸を解体できるか」

「できねえよ。俺は土木屋じゃなく肉屋だぞ」

「うむ。そうではなくてじゃな。たとえば目の前に牛の生肉が一かたまり置いてあるとしたら、お前はまず何を考えるかの?」

「質を見て売値を決める。値の基準は部位によるが」

 なので、肉塊を一目みて部位が判別できないようでは話にならない。

「うむ。胃は胃の位置に、膵臓は膵臓の位置に適した形であるもんじゃ」

「とつぜん医者みたいなことを言い出したぞ魔心屋が」

「建物も同じじゃよ」

 検分を終えた取っ手を押し下げてアイヴィ・ダンテスは扉を開けようとした。

「開かんのう」

「怪しい魔心屋に備えて鍵かけといたんなら正解だな」

 魔心屋が華奢な手の甲で三度、扉を叩くと、妙にくぐもった音が鳴る。アイヴィ・ダンテスの口元がわずかに緩んだ。

「この向こうには何もない。ぱかっと穴が空いとるだけじゃ」

「そんな馬鹿な」

「疑うなら蹴り開けてみればよい」

「捕まっちまうだろ」

 そのとき前方の曲がり角から若い女中が現れ、二人のいる方に向かって歩いてきた。

 ルシオは居心地の悪さを感じて目を泳がせる。

 品のいいお仕着せに身を包んだ女中は一度も二人の珍客に視線を向けることなく、澄まし顔で通り過ぎていった。ただの中年男に肉屋の前掛けを足しただけの俺はともかく、とルシオは思った。俺はともかく、この異様に婆風味な若い娘をよく無視して済ませられるものだな。

「ルシオよ。最短で私とともに仲良うゴミ捨てができる方法を教えてやろう。かたっぱしから扉を開けて、この邸を解剖するんじゃ。さあ、始めい」

 ルシオは困惑して眉間を皺にした。

 そもそも俺のゴミじゃない。

「一つ訊くが、それをやれば令嬢の依頼の解決に役立つのか?」

 共同住宅の黴だらけの狭い階段を勇敢にのぼっていた令嬢を思い出して、ルシオは言った。

「ああ、そうじゃ。役に立つさ」

 飄々と頷いたアイヴィ・ダンテスを信じてしまっていいものなのか。

 困惑を消しきれないままルシオは前掛けを外す。

「わかったよ。第三分隊名物クルース大尉の突撃命令くらい意味不明だが」

 やけっぱちの気分で独りごちつつ、目の前の扉を蹴破った。

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