怒り

 アイヴィ・ダンテスは令嬢シュマイラの依頼を受けたが、明らかに不機嫌だった。

 どうやら令嬢シュマイラの語った話のがアイヴィ・ダンテスの機嫌を普段よりも深刻なところまで損ねたようだった。

 さらにはシュマイラ・ネーという娘のが、アイヴィ・ダンテスにとって気分を悪くする要因となるものだったらしい。

 どちらの〈何か〉も、他人にはとうてい窺い知れないものだったが……。

『人探しの依頼は受けよう。今日の私は疲れておるから一晩寝かせてもらう。明日の午前中にまた来るがよいわ』

 実際、アイヴィ・ダンテスは客人を迎えた初めから顔色が悪かった。

『あの方を見つけていただけましたら、あなた様の仰しゃるままの金額を用意させていただきます』

 と恥ずかしそうに言った令嬢に、

『金は要らん』

 ぴしゃりと答えた。

『報酬は〈家〉じゃ』

 もちろんそれなら用意できる、という令嬢の返事を制して、

『そうではないんじゃ。豪華な邸宅を丸ごと寄越せと言っておるのではない。空の家など役に立たんでな。私は誰の依頼でも報酬に金は受け取らん。ただ、私が望むときに望むだけ、何も言わずに、出来ればこっそりとお宅に泊らせてほしいと頼んでおくだけなんじゃ。だからと言って一年も二年も厚かましく居座るつもりはないんじゃ』

『そんなことでしたら、もちろん幾らでも喜んでお迎えいたしましょう。でも……』

 誰でも怪訝そうにアイヴィ・ダンテスのささやかすぎる要求に首を傾げるものだ。そのときの令嬢シュマイラも例外ではなかった。

『ドードリアへ逃げたネー財閥のあんたなら、むしろよくわかるじゃろ。このご時世じゃ。またいつ戦が起きたり、教徒どもの〈魔心師狩り〉が始まったりするとも限らんからな、避難できる家があれば安心なのじゃ。特に外国なら都合がよい。秘密の隠れ家はなかなか金では買えんでのう』

 客人を部屋から送り出すと、アイヴィ・ダンテスは玄関口でばったり崩れるように膝をついた。傍らに積まれた麻袋の山にかろうじて縋りつき、重い身体を預けて脱力したまま、しばらくじっとしていた。

 因果なものじゃ。

 因果なものじゃ。

 因果しか感じられぬ。

 青白い貧血気味の唇からそんな言葉を呟いて、それっきり事切れるような眠りに落ちた。二、三時間ごとに薄く目覚めては、寝ぼけたまま無意識に魔痺タバコを求めて麻袋に手を這わせていたが、荷をひとつにまとめた紐が固くて解けない。

「あの肉屋。結び目が固いんじゃ、阿呆ぢからめ……」

 苛々とささくれだつ不機嫌な心を抱えて、アイヴィ・ダンテスは朝まで虹色の煙の夢を見ていた。

 魔心師にとって心の動揺はその生命を致命的な結果に至らしめる禁忌だ。

 何故ならば魔心師は、心に〈意識〉の片鱗を棲まわせている。

 魔心——魔色の心を持つ者——それが魔心師という呼び名の由来だ。本当のところ、魔心師を名乗る者の中でも正真正銘の魔心を持っている魔心師はそれほど多くないのだが、あいにくアイヴィ・ダンテスは紛れもない魔心の持ち主だった。

 〈意識〉は触れるものをみな目覚めさせる。原初の世界で、生命が創造されたあとの残滓に〈意識〉が触れると、精霊そいつらが生まれたという。地下鬼もそうして生まれた精霊の一種だ。向こうがわの世界のそいつらはみな、生命になり損じた生気の霧に〈意識〉が触れて生まれたものだ。そいつらは〈意識〉の気配に惹かれて集まってくる。

 〈意識〉の片鱗の気配に惹かれて魔心師の周りに集まってくるそいつらは、魔心師の心の状態に同期して騒いだり大人しくなったりする。魔心師の心が盛んに奮い立っていれば、そいつらは浮き足立ってあちらとこちらの境を越えてくる。心の制御に長けた魔心師は、そいつらの力を見極めながら意のままにそいつらを躍らせ、〈精霊現象〉を起こすことができる。炎。水。風。光。そいつらの力をどのくらい躍らせられるかは、魔心師の心の強さ次第だ。

 だが心の制御は人間にとって、不可能に近い難事だ。

 魔心師は、天使の気配を知覚する感性がありながら信仰には背を向けた捻くれ者たちの末路であるから、修行や忍耐などを己に課して目的に達しようとする人間はほぼいない。

 その反面、魔心師は与えられた真実に満足しない探究者たちでもあるゆえに、手段の研究には労を惜しまない。

 結果、魔心師が手にしたのは、魔草である。

 魔心師たちの研究で作り出された各種の魔草は、単体あるいは調合によってそいつらの気分を上げたり下げたりする効果を持つ。魔心師の心の乱れに同期してそいつらが暴走したときには、下げ草と呼ばれる種類の魔草を炊けばそいつらは酩酊してあちらがわへと引っ込む。シュナウツの店でアイヴィ・ダンテスがやってみせたように。

 また、魔痺タバコと呼ばれる種類の草は、魔心師の魔色の心に直接的な効力を示す。心そのものを麻痺させるのだ。感情を、凍結する。

 魔心に惹かれて集まってくるそいつらの無用な暴走を防ぐために、魔心師は魔痺タバコで感情を麻痺させつづけている。


——僕は嫌いなんだよ、あれは。愛煙家とは同じ部屋にもいたくない。


 アイヴィ・ダンテスの知る中で彼女の師匠ただ一人が、〈嫌煙家〉だった。

 彼ミハは、魔痺タバコをまったく嫌っていた。

「くそ。くそが。くそ師匠の台詞なぞいちいち思い出さんでいいんじゃ……腹立たしいぞ……!」

 現と夢の境で頭をかきむしりながらアイヴィ・ダンテスは叫んだ。

 閃光のごとき怒りが彼女の心を満たし、魔心が震える——。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る