〈光と闇の意識〉について

 〈魔心屋〉アイヴィ・ダンテスの店は看板も掲げていないし、店と言い張れるような体裁はどこにも保たれていない。

 それどころか人間の居住する部屋としての外見すら微塵も残ってはいなかった。

 凄まじい混乱と堆積がその空間を満たしていた。

 彼女の師匠がこの部屋を見たならば、千度の破門を言い渡しただろうが、すでに彼女は百度の破門を食らっている身だ。

 〈魔心師〉と呼ばれる者たちは、心の混乱を忌避する。

 〈魔心師〉にとって心の乱れはその生命を致命的な結果に至らしめる禁忌であり、あらゆる策と工夫と鍛錬を重ねて平らな心を会得し、維持する必要がある。

 よって〈魔心師〉は、欲や執着とは無縁に生きなければならない。

 と、されている——。

「あなたは〈魔心師〉ではないのですか」

 おそるおそる口にされた令嬢の問いは、しかしアイヴィ・ダンテスの部屋の有様に〈魔心師〉としての矛盾を見てとったせいではない。〈魔心師〉の心得など、一般人に広く知られているわけではないからだ。

 令嬢はさっきアイヴィ・ダンテス自身が不機嫌に訂正した言葉をとらえて不安そうな顔をしていた。玄関口で、大鍋と枕と紙束と薪が何層にも積み上がってできている障壁に阻まれ、それ以上は前に進めないままで。

「ふん。そもそもが〈魔心師〉など誰の認可で存在しておるわけでもなし。正統な学問の体を成してもおらぬ奇術まがいの生業でしかないくせに、どいつもこいつも歴史の古層に挑む学者気取りでよくも偉そうなもんじゃ。〈魔心屋〉で充分じゃ」

 大きくて厚みもある額縁が何枚も積み重ねられて窓の半ばまで塞ぐ高さとなっているところに、アイヴィ・ダンテスは皺だらけの色褪せた服の裾を引きずりながら昇り、視界を確保する。

 窓に貼りついて干からびている適当な〈魔草〉の束をひっぺがし、適当なブリキの茶碗につっこんで火をつける。

 しゅわしゅわと燻る煙を胸いっぱいに吸ったその息で、〈意識語〉を呟いた。

 とたんに令嬢の前を塞ぐ障壁が消えた。

 次々とガラクタが消失し、客を部屋の中心の長椅子へと導く道が拓かれた。

「き、消えたものはどこに……」

 従者の男が声を裏返す。

「〈あちらがわ〉に持っていかせただけじゃ」

 顔色をなくしている従者を置いて、令嬢はアイヴィ・ダンテスの部屋に入ってくると、虫食い穴だらけの長椅子にためらわず腰を下ろした。

「わたくし、隣国ドードリアの首都エルムからやってまいりました。シュマイラ・ネーと申します」

 タバコが欲しいが玄関の麻袋の荷を紐解きにいくのが面倒なアイヴィ・ダンテスは、揺り椅子のクッションの隙間に挟まっていた吸いさしを摘まみ出して火を点けた。

 虹色の煙をくゆらせながら揺り椅子に寛ぐ。

「ドードリア人。それなら大層な馬車で乗りつけるのもしょうがないのう」

 旅装の令嬢シュマイラは改めて立ち上がって、薄く柔らかい外套と帽子を脱いだ。

 駆けつけた従者に旅装のそとがわを預けて座り直す。

 それから彼女は手袋をゆっくりと外しはじめる。

「領事を通じて滞在許可証は頂いております」

 ドードリアは〈赤い鉄線〉の台頭で母国を離れざるを得なくなった富裕層を積極的に受け入れてきた国だ。一方で、大陸西に着々と版図を広げる〈赤い鉄線〉に対しても他国のような敵対路線を取らず不干渉を貫いているため、両国の関係は悪くない。今のところは。

 国そのものが大陸西の金持ちの金庫と隠れ家になったドードリアには、世界経済の顔役と呼ばれる人々の一部も拠点を構えている。

 中でもネー財閥は著名な金融家の一族だ。

「ネー財閥が〈赤い鉄線〉を怖がってこの国を逃げ出したのは、ご令嬢が生まれる前だったじゃろうの」

「そう聞いております」

「皮肉を言ったんじゃがの」

 令嬢は不思議そうな表情で小首を傾げた。

「あなたは〈赤い鉄線〉の占領以前からここにお住まいですか? 〈忘れられた羊の帝国〉では魔心師の存在が許されなかったという話ですが……」

 アイヴィ・ダンテスは七色の煙を一筋ゆっくりと吐いて、「そうじゃったのう」と小さく呟いた。

「まあ昔のことはもうよく覚えておらんでのう。いったい私はどこで何をどうやって生きてきたんじゃったかのう。さっぱり記憶の彼方じゃわ。いや私のことはどうでもいいじゃろ。ご令嬢はそんなに思いつめた目つきをして、一介の〈魔心屋〉の私に何の用なんじゃ」

「人を探していただきたいのです」

「ほう」

「もちろん、これは普通の人探しではありません。捜査機関や私立探偵には相談もできないことなのです。彼は、わたくしの目の前で、この世のものではない何者かに攫われてしまいました。あとには何の痕跡も、行方の手がかりも残さずに」

 外した手袋を握りしめて令嬢シュマイラはアイヴィ・ダンテスに助けを求めた。

「攫われた、とな」

 アイヴィ・ダンテスの眉がひくつく。

 心の琴線を破門槌で破壊されかけたくらいのときアイヴィ・ダンテスはこの顔をする。

「突然わたくしの前で」

 令嬢シュマイラは感情を抑えられなくなったように身振り手振りを加え、訴えた。

「その魔物は女のかたちをしていて、青いドレスを纏っていました。音もなく彼の背後から現れました。そして両手で彼の顔を掴むと、彼の唇に……。その一瞬に二人はわたくしの前から掻き消えたのです」

 揺り椅子を倒してアイヴィ・ダンテスは飛び上がった。

「そいつは〈堕天使〉じゃ!」

 令嬢の口元には戸惑いとも軽蔑ともつかない仄かな笑みが浮かんだ。

 それを見るなりアイヴィ・ダンテスは我に返った。

 バツの悪さを隠すように座り込み、普段から乱れっきりのボンネットを弄り始める。

「やっぱりあれは魔物なのですね」

「ふむ。堕天使は本来、扱い方を間違えなければそう悪質なもんではない。むしろ可愛らしく哀れな囚われものじゃ」

「天におわします〈虚空神かみさま〉の元から剥がれ落ちてしまった者たちのことではないのですか?」

「〈教徒〉どもはそう解釈しておるが」

 虚空神を信仰する万象教においては、それは〈神〉と〈魔〉と呼ばれる。

 魔心師の共通認識においては、それを〈天〉と〈意識〉と呼ぶ。

 魔心師の関心の対象は〈天〉ではなく、〈意識〉だ。

 〈意識〉はまだこの世界がこの世界のかたちを持っていなかったとき、〈光と闇の意識〉として存在していた。未分化の混沌とした力であった。

 初め、〈天〉は〈光と闇の意識〉に命じてこの世界を作らせた。

 だが〈光と闇の意識〉は世界創造の過程で何らかの間違いをした。あるいは〈光と闇の意識〉は思いどおりに理想とする世界を創造したが、その世界の何かが〈天〉の逆鱗に触れるほど間違っていたのだ、とする説もある。

 〈光と闇の意識〉が創造した世界を〈天〉は認めず、二つの大いなる力は戦いをはじめた。この大いなる戦いに〈天〉は勝ち、〈光と闇の意識〉を氷詰めにして地下へと葬った。

 しかし戦いで消耗した〈天〉は新しく世界を創造する力がなく、〈光と闇の意識〉に作らせた世界をその息吹で浄化した上で育てることにした。

 つまり、この地上である。

 〈光と闇の意識〉が地下に封じられるとき、光は〈意識〉から分離して〈天〉に従い、〈天使〉と呼ばれるようになった。以来〈天使〉は〈天〉による地上の浄化を手伝う存在となった。

 〈天〉はけして人間の前に姿を現すことがないが、〈天使〉は人間を導くため地上に遍在する。ごく稀な奇跡としてではあるが、選ばれた人間によって知覚されることもある。

 〈天使〉を知覚できるほどの稀な感性を持つ人間は、万象教の語る真理に吸着されて神の道に入るか、あちらがわとこちらがわの境界で戯れる術を覚えて〈魔心師〉となるか、大抵どちらかの選択をする。

 不可視のあちらがわに存在するのは〈天使〉ばかりではない。

 天秤に悪戯していたような〈地下鬼〉などの精霊そいつらと、そして〈堕天使〉。

 〈堕天使〉とは、〈天使〉となって〈天〉に仕えたはずなのに、〈意識〉と再び同化することを求めて〈天〉から離れ、あてどなく彷徨うものたちのこと。

 万象教においては〈神〉を裏切りし〈魔〉の眷属とされ、太古に〈光と闇の意識〉に触れて目覚めさせられたものたちである精霊そいつらとともに、人間に悪しき影響をもたらすとして忌避される魔物だ。

「魔心屋の中でも真理の探究者を自認する厄介な者どもは、〈堕天使〉を捕獲して結界に閉じ込め、その生態を研究したがる。何故かといえば、〈堕天使〉は〈意識〉と同化したい想いの強さから、〈意識〉を真似する生きものだからじゃ。〈堕天使〉の研究は、自ずと〈意識〉の研究につながる」

 古来、〈魔心師〉という言葉は、〈意識〉が何者であるかを解き明かそうとする者たちを意味した。


 ——〈意識〉とは何か。

 ——〈意識〉は世界を創るとき何を間違えたのか? 

 ——あるいは、〈意識〉が本当に創造しようとしていた世界とはどんなものか?


 その答えがわかれば、不完全なこの世界を完全なものに再創造することが可能になるのだ、と、一部の魔心師たちは信じている。〈天〉は姿を現さないが、〈意識〉の実在は〈堕天使〉によって証明できる。だから魔心師たちは万象教から迫害されながら〈天〉に背を向け、日陰の探究を続けてきた。

「しかし〈堕天使〉というものは、人間のようなひとまとまりの知性や意志を持つものではないのじゃ。本性は無垢そのもので、ふわふわと掴み所のない、言ってみれば蝶ちょや蟻んこくらいに人間にとって友達になり甲斐がいのない生きものじゃ。犬や馬のように賢く懐いたりはせんからのう。まして人攫いの悪巧みなどできぬし、目的を持って行動することもない。——普通の堕天使はな」

 限りなく細くたなびいて燃え尽きかけていた虹色の煙が、ふっと途切れた。

「じゃが、とある一匹の〈堕天使〉だけは違う」

 アイヴィ・ダンテスが娘らしい澄んだ声を低めた。

「あいつはまるで……人間を真似するように振る舞う」

 再び令嬢シュマイラは微笑みを浮かべた。

 彼女はようやく味方を得たと思っているのだろうか。確かに、令嬢の身に起きた異常な不幸は、信じてくれる者を見つけるほうが難しいほどのものだ。一人の人間が忽然と消失するなどという話は。

 まして、解決を頼れる相手となれば尚更に。

「女じゃったと言ったな?」

「ええ、艶かしい女でしたわ」

「堕天使に性別などないが、私の知り合いを襲ったのも女じゃった」

「あなたも親しい方を襲われたのですか」

 それですべてに得心がいったというように令嬢シュマイラが頷く。

「わたくしは助けを求めて魔心師を訪ねまわり、幾人かの魔心師たちからあなたの名前を聞いたのです」

「はて。それはどういうことじゃろうな」

 令嬢シュマイラは長椅子の上で前のめりに身を乗り出した。

「アイヴィ・ダンテスという魔心師は〈ミハ〉を探し続けている、と聞きました」

「それは、まあ事実じゃが——」

「彼を連れ去るとき、女は言ったのです。『ミハの元に行きましょう』、と」

「ミハは私の師匠の名じゃ」

 指先で揉み潰した吸い殻をアイヴィ・ダンテスは隅の大盥おおだらいに投げ捨てた。

 水の張られた大盥は真鍮製で、年季の入った鈍い光を放ちながら、この狭い部屋の隅の床で異様な存在感を示している。

 澄んだ水の底に、部屋の主人の雑な性格を象徴するように魔痺タバコの吸い殻が堆積していた。

「じゃが、あれは人を攫うことはせぬ。人間にまったく興味がないからな。むしろ人嫌いのどうしようもない男じゃ」

 吸い殻と一緒に戯れ言を追い払うような仕草で手を振って、アイヴィ・ダンテスは言った。

「手がかりにならないでしょうか」

「それはどうか知らんが。わりと肝心なことをお主は語ろうとせんのう。攫われた男というのはいったい何者なんじゃ」

 じろりという音の聞こえそうなアイヴィ・ダンテスの視線が、令嬢のはぐらかしに刃を立てた。

「彼はわたくしの愛しい方であり、わたくしの家がずっと支援をしてきた方です」

 令嬢シュマイラはいったん目を伏せ、それから潤んだ瞳をひらいて言った。

「彼は——〈忘れられた羊の帝国〉の皇位継承権を持つべき方です」

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