珍しい依頼人

 夕闇に背中を追い立てられるようにルシオ・モニークはシュナウツの店から麻袋を山と積んで帰ってきた。自転車に旧式の原動機をくっつけた原付二輪は、廃品同然の材料をほうぼうから集めてきて自力改造した愛車だ。大して速度は出ないが、歩いていくよりは格好がつくし、荷台の両側には〈カーン精肉店〉の看板をぶらさげているから少しは店の宣伝にもなる。

 ぷすぷすと排気の怪しいポンコツ馬を路肩に停めたところで、背後からやってきた見るからに毛並みのいい高級馬に気品のある鼻息を引っかけられた。

 立派な箱馬車が、床屋と雑貨屋に挟まれたルシオの店の前で停まった。

「何だ? 何だってんだ?」

 この界隈は下町の奥の奥。川の向こうはもう貧民の棲むところだ。どんなに方向音痴の才がある者でも迷い込むほうが難しいような区域に、場違いな馬車が何の用事で現れたものだろうか。

 馭者台から降りてきた従者らしき男が、馬車の扉を小さく開けて主人と何やら話している。

 それから従者は、〈魔痺タバコ〉の麻袋を降ろしているルシオに近づいてきて、

「もし。この辺りに〈魔心師〉は住んでいるか」

 と尋ねかけた。

「アイヴィ・ダンテスの客か? この上で客の滅多に来ない店をやってるよ」

 麻袋を担ぎ上げたルシオはあとを構わずそこから離れた。

 生計が立っているのか疑わしいほど、魔心屋アイヴィ・ダンテスのもとに依頼人は殆ど訪れない。

 癇の強い子供だと思ったら大人には視えない〈そいつら〉が視えてしまって泣いているのだったり、勤めに出られなくなった会計士の鞄と靴に〈そいつら〉が巣を作って持ち上がらないほど重くしていたり、鏡に映るはずのない世界が映っているとか、〈そいつら〉の越境によって起こる怪事を解決するのが魔心屋の仕事らしいのだが、そもそも世間の大半の人間は、〈そいつら〉や〈あちらがわ〉や〈魔心師〉を全部ひっくるめて胡散くさいものとして敬遠しているのが実情だろう。

 集合住宅の薄暗い共同階段を上っている途中でふりかえると、玄関を開けた従者が首をのぞかせて内部を確かめ、それから恭しく扉を押さえて主人を通した。

 アイヴィ・ダンテスの客は、生まれてこのかた一度も釣り銭を数えたこともなさそうな若い女性だった。

 ——可哀想に、こんな黴臭い集合住宅の狭い階段をあんなに高そうな服と靴でおっかなびっくり上ってこなけりゃいけないなんて。

「アイヴィ。アイヴィさんよお。言われた通りの届けもんだぜ。早いだろ?」

 共同玄関と同じ濃緑に塗られた扉を手荒く叩きながらルシオは中に呼びかける。

 不在を疑いたくなるがあって——だが出不精のアイヴィ・ダンテスが一日に二度も出かけるなどありえない——、やがてガサゴソと音を立てながら中の住人が玄関口へと辿り着く気配がし、やっとガチャリと扉が開いた。

 不機嫌に顔をしかめきったアイヴィ・ダンテスが、僅かな隙間からルシオを睨み上げて返事をした。

「どこがどう早いんじゃ。命じたのは朝のうちで、今は日が暮れとるじゃないか。手持ちのタバコも堪忍袋のヒモも危うくキレるところじゃったぞ」

 ルシオは豚革の長靴の先で扉をこじあけて玄関口に麻袋を下ろす。

「だからぁ俺はあんたの便利屋でもなんでもないんだよ。俺はただの近所の肉屋なんだよ。あと客が来てるぞ」

 不機嫌なアイヴィ・ダンテスの言葉はいつでも理不尽だが、それでもアイヴィ・ダンテスにルシオは二つ三つの恩義があると思っているので、彼女の頼みを無下に断ることができない。下の店舗を譲り受けてからカーン精肉店を新装開店するまでのあいだに、土地の習慣に疎いばかりに戸惑ったり困ったりしたルシオを何度か助けてくれたのがアイヴィ・ダンテスだ。

 口は悪いしどこまでも謎めいた人物ではあるが、アイヴィ・ダンテスは善くない人間ではない。ルシオはそう考えて、困った時はお互い様のご近所付き合いをつづけていた。

 廊下から死角となる壁際に体を寄せ、ルシオは声を落とした。

 令嬢たちは階段の上に留どまったまま先客ルシオが去るのを待っている。

「あんたは時勢には疎そうで、こういうことを知ってるかどうかわからんが、俺の国では一般市民は彼女が乗ってきたような豪華な箱馬車を持てない。官憲に見つかったら面倒な相手かもしれんぞ」

 アイヴィ・ダンテスが険呑に目を細める。

「いつからここがお前の国になったんじゃ」

「十年前からだな。いや俺のもんじゃねえけど」

 ルシオの母国〈赤い鉄線〉がこの国を占領したのは十年前。

 初めのうち〈赤い鉄線〉占領軍はこの国の法制度の維持を約束していたが、徐々に本国との同化政策がとられはじめ、三年前からは本国と同じように私有財産に制限がかかるようになった。

 〈赤い鉄線〉には、一定以上の富裕者が存在しない。

 一定以下の貧者も存在しないことになっている。

「お嬢さん。ここがお探しの魔心師の部屋ですよ。いつも人間業とは思えんほど散らかってるんで、お足元が心配ですがね……」

 〈魔痺タバコ〉の運び屋と案内役とを果たしたルシオはさっさと二階を後にする。

 後方から不機嫌きわまりないアイヴィ・ダンテスの声が聞こえた。

「魔心師ではない。私は魔心屋じゃ」

 朝に会ったときよりもアイヴィ・ダンテスの機嫌が悪いのは本当に〈魔痺タバコ〉が切れたせいなのか?

 目の下には朝にはなかった異様ながあったし、精根尽きたような疲れた顔をしていた。

 あの小さな間借り部屋で一日中ひきこもって、アイヴィ・ダンテスはいったい何をして生きているのか?

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