肉屋のルシオ

 ルシオ・モニークはブツ切りにぶったぎった豚の内臓の前で悪態をついた。

「ちくしょう、腐ってやがる」

 肉は腐りかけが旨いとはいうものの、今朝がた仕入れたばかりの箱詰めの豚肉は食べごろをすぎた廃棄物だったようだ。

「余所者だからって馬鹿にしやがってなあ、どいつもこいつも」

 どす黒い血と肉汁に汚れた前掛けを剥ぎとって解体室から店へと戻り、釣り銭の補充をしてからルシオは店を開けた。


 〔カーン精肉店〕


 三年前に三十二歳で軍を退役してすぐ、隠居する老夫婦から譲り受けた店である。

 自分で塗った看板に日の当たるさまはいつ見上げても惚れ惚れする。

 店名は老夫婦の時代のままだが、一国一城のあるじとして全ての決め事を自分が仕切っているこの店は間違いなくルシオ・モニークの店だ。

 積み木のおもちゃの牛と豚と鶏が行進する飾り窓には、初年兵しごきに精を出す古参軍曹みたいな男が映り込んでいた。

 額に下ろした赤毛の前髪が左右に分かれ、後ろはすっきりと刈り上げている。

 冷たい秋風に晒された首筋を反らしながらルシオは一転、遠い目をした。

「四十歳までは青年だ」

 というのが三十を過ぎたあたりからルシオが持ちはじめた信念だった。

 四十歳まではまだまだ若造だ。

 だがその四十歳も、もうあと五年というところに迫っていた。

「四十を過ぎたって急に腐りはじめるわけじゃなし」

 最近ではそんな慰めが口癖になりつつある。

「デカい図体で何をぐずぐず歩道を塞いでおるんじゃ。どいとくれ」

 飾り窓の前でがっつりと腕を組んだままルシオは振り返った。

「アイヴィ。こんな朝の早くに珍しいな。買い物か? 肉買ってくか?」

 鄙びたボンネットを被った小柄な娘が虹色の煙をくゆらせながら顔を上げた。

「要らぬ。私は肉も魚も調理済みの加工物しか食わんのじゃ。お前が作る肉詰めも燻製もまるで〈堕天使〉のひり出した糞のように不味いゆえ、やはり買わぬ。つまり、買わぬ」

 売り物の全てを否定されてルシオは顔をしかめた。

「前から後ろから研いだナイフで刺し殺すようなこと言うなよ」

 構わずにアイヴィ・ダンテスはすたすたと歩道をすりぬけて、カーン精肉店の飾り窓に隣接する扉を開けた。黒い肩掛けで覆われた腕に提げているのは、乾いた草で一杯の買い物カゴだ。

 一階にカーン精肉店が入っている建物の上階部分は集合住宅で、アイヴィ・ダンテスはカーン精肉店のちょうど真上の二階に住居を構える住人だった。

 ご近所付き合いの中でルシオの知るかぎり、彼女はいつも老婆のような言葉遣いをし、老婆のような服を好んで身につけ、老婆のような厭世の表情を崩すことがない。

 が、その中身は四十歳までだいぶ遠い。

 年の頃はおそらく十七、八。

 どこかの辺鄙な田舎の出なのか? それともこれを老成した若者というのか?

 あるいはこれが〈魔心師〉と呼ばれる者たちの常態なのか——。

 余所者であるルシオにはアイヴィの言葉の響きから出身地を測ることができず、四十歳を目前にしたルシオには今どきの若い娘の生態が狙撃銃の極大射程よりも遠く、〈神〉の加護とさえ無縁に生きてきたルシオにとって不可視の世界を視る〈魔心師〉などアイヴィ・ダンテスと知り合うまでそれこそ不可視の存在だった。

 とはいえ、一つこれだけは確かなこととして、アイヴィ・ダンテスは変わり者だと思う。

 外身ではなく、その性格が。

「ああ、そうじゃった。ルシオよ、あとでシュナウツの店に行って〈魔痺タバコ〉を運んできておくれ。よろしくな」

 中に入って扉を閉める前にアイヴィ・ダンテスは〈魔痺タバコ〉の先っぽの火を覗かせてさらりと言い残す。

 当然のごとく。

 『急ですまないのじゃが』『できればでよいのじゃが』『その腕っぷしを見込んでなのじゃが』のいずれかの一言もなく。

「軍用鞭で締めた首を引っぱるように人を操るなよ、おい。俺はあんたの使いっ走りじゃねえぞ」

 慌てて抗議したルシオの大声は、濃緑に塗られた玄関扉に閉め出された。

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