実験的私小説(Ⅰ)

@kitakami131

吐露(ⅰ)

 運命的な夕暮れ、僕はその子に出会った。

 

 いつも通り、帰り道。その日あえて選んだ浜辺の道は、まるで後ろから足を引かれているかのように沈んでいく足と、絶えず侵入してくる異星人の様な砂の粒からくる不快感など気にも留めないほどの高揚に満ちていた。

 

 きっかけは何気ないことだった。数日前どこかの誰かから聞いたとある情報は、日々を無気力に過ごす僕の耳に確かに届いた。それは、僕がずっと夢見てて、でも、もうあきらめかけていた事だった。聞いた端から、準備に取り掛かった。どこのあたりで会えるだろう、いつの位にあえるだろう。僕の脳内はその日から必要なこと以外、いや、時には必要なことのボーダーさえ侵食して、その子のことを考えることに充てられた。そして、今日、この日。僕は意を決してその子に会いに行く。焦がれ続けた、その子のもとへ。

 

 授業で描いた時の様な、鮮やかな橙のグラデーションが一面に広がっていた。潮騒が耳を打っては引いていく。磯の香りが鼻を衝く。そんなさなかに、その子はいた。比較的浅瀬に近い所だ。準備していた通り、僕はその子に接触を図る。


「おーい。こちらにおいでよ。そんなところで泳いではいないで」


 まだ僕に慣れていないからだろうか、反応は薄い。でも、こんなチャンス、またとない。僕は自分にそう言い聞かせて、少し深い所、その子の近くへ、決して怖がらせることは無いように歩みを進めた。


 その子と最初に出会ってから実に3日が経過しようとしていた。最初こそその子は僕のことを警戒していたものの、僕の懸命な努力が実を結んだのだろうか、その子は近くに来てくれるようにまでなっていた。


「あだ名、つけてみてもいいかな」


 控えめな提案に、声を弾ませて肯定の意を僕に伝える。


「どーりん。どーりんって君のこと、呼んでもいいかな」


 短い返答。どうやら、彼女は僕がそう呼ぶことを許したらしい。自然と頬が綻んでいるのを感じる。何せ、僕以外の人間がいまだやったことのないだろうことを成し遂げたのだ。あまり良くないことだとは思いつつも、僕の空っぽだった心に独占欲が注がれていくのを感じる。幸福感が溢れるのを、感じる。


 あくる日、僕はまた彼女の所へ向かう。あくる日も、あくる日も。時には彼女は数人の、僕以外の人間たちと戯れていることもあった。そういうこともあるのだと、自分を納得させた。彼女の愛らしさに僕以外の人間たちが魅了されるのも、無理のないことだと思った。ただ、自分自身を納得させようとしている自分、納得しようとしている自分以外の存在を、僕は感じ取らざるを得なかった。


 ある日、いつも通り彼女のもとへ向かおうとした時のことだった。開けた浜辺に彼女がいると、遠目でも人の集まり具合で大体の居場所がわかる。その日は、筋肉質な男性たちが集っていた。直接は見えない。しかし、その奥に彼女がいるのだと直感的に悟った僕は、逸る気持ちもそのままに屯している男たちのもとに駆け寄った。


 結論から言うと、走っているうちに僕の脳内で加速されていた、最悪の結果にはなっていなかった。男たちはただ、物見遊山的に彼女の愛らしい姿を見に、何かのついでに浜辺にやってきていたに過ぎなかった。しかし、見過ごせないこともあった。男の幾人かが、彼女の体に、腹に、胸に触れている。スキンシップのつもりだろうか。それでも僕の心は煮えたぎっていた。それが貞操観念に基づく義憤では無く、ひたすらに僕自身の独占欲を源としているくらい、僕にはわかっていた。わかってはいたが、僕自身をうまくコントロールするために費やしたエネルギーを換算するならば、それは途方もないことだった。


 数刻の後、男たちは笑いあいながら、去っていった。今にも迸ってしまいそうな僕は、そこに、彼女の前に、立っていた。僕の心にあったのは軽薄にそういったことをする男たちへの怒り、傍で黙ってみていることしかできなかった臆病な自分自身への怒り、そして、されるがままにされていた彼女自身への怒りだった。しかし、僕はそのどれもに対する言葉を持ち合わせてはいなかった。今から男たちに向かって説教をしに出向くか? 今から過去へ戻って男たちのもとへ怒鳴り込むか? それとも、彼女に対して抵抗するべきであったと怒鳴るべきなのだろうか。どれもが、行うには遅すぎ、あるいは、一欠けらの正当性をも持っていはしなかった。代わりに僕は黙って彼女を引き連れた。決して怖がらせることはしないように注意を払いながら、彼女を岩陰に引き連れた。空はすっかり暗くなり、妖艶な月は雲間からその体を誘うように覗かせては隠し、隠しては覗かせるのだった。


 夜中、僕は床の上で罪悪感の念に苛まれ、また達成感に酔いしれていた。本当に良かったのだろうか。彼女の意思はどうであったのか。彼女は、このことを許してくれるのだろうか。ついにやった。僕はおそらく初めて、彼女を個人の物にした。喜ばしき罪悪感と、恥ずべき達成感が僕の心を傷つけ、充足させ、又傷つけた。その夜、寝ている暇など僕にあるはずもなかった。


 その日から数日間、僕は彼女に会いに行くことが出来ないでいた。混沌とした心情は今も変わらず僕の心をひっかきまわしていたし、満たしていた。そしてこの頃は、原因不明の吐き気に加え、視界もどこか霞むようになっていた。しかしいい加減、彼女が恋しいという気持ちが日に日に決壊しそうなことを僕自身気づいていた。


 数日後のことだった。僕はいつもよりも格段に重い足取りで彼女のいる浜辺へ向かう。遠目から見える彼女、傍らにいる見知らぬ男性。いったい誰なんだろう、そう考えるうちに遠ざかる彼ら。男に気づかれぬように後に続く。あの岩場だ、彼らが歩みを止めた場所に、僕は見覚えがあった。数日前、彼女を我が物とした、あの岩場だ。見知らぬ男が彼女に声をかける。数十日ぶりだね、ルイと。うまく状況が呑み込めない。かろうじて僕の脳が処理できたことは、男は仕事の都合でしばらく離れていたこと、彼女をルイと呼んでいること。たちまち心臓が早鐘を打つ。息をつく暇もなく新たな視覚情報が無理矢理に頭の中に投影される。口付けを交わしているのだ、見知らぬ男と、彼女が。表皮が熱を帯び、発汗が促進される。僕が物も言えず岩陰から覗き見ている間、着々と彼らの行程は段階を経る。なぜだか、自分が興奮しているのを感じる。その興奮が、数日前彼女が筋肉質な男たちに囲まれていた時に感じた怒りと、本質をほとんど同一にするものだと悟る。男が上衣を脱いでいく。僕が本当に彼女から奪えたものなど、何一つなかった。


 この頃僕には日課が出来た。毎夜岩場に行き彼らの様子を見るというものだが、これがなかなかに面白い。何が面白いかというと、空をつかんでいた少し前の僕が、面白い。これは家で彼らのことを考えるたびに感じることではあったが、眼前に見据えた方がより深く心に感じ入るような気がする。それともう一つ、僕はこの状況に、かつてないほどに興奮していた。彼女を我が物にしたと確信したあの時とは違う、逆に、自分の物であったはずのものが奪われてしまうというのに感じるこの快楽。思うに、これは怒りのある側面であるのだと思う。僕が以前彼女を僕から奪おうとする者たちに感じた怒りは、確かに本物の怒りであったはずだ。しかしそれは別の側面から見た時、その大きさのまま快楽へと変わる。怒りが大きければ大きいほど、快楽も大きい。むしろ、もしかすると僕はこの快楽に怒りという布をかぶせ、自身の正当性を自己証明しようとしていたのかもしれない。はたまた、この状況は精神の均衡を保つために行われる、その全く逆位置の防御機構なのかもしれない。そも、そのどれであろうとも、この快楽は変わらない、この気持ちのよさは決して変わることがない。それだけは確かなことであり、自分の中身がすべて吸い取られてしまったように空虚に感じる中、しかし体の内側の、奥の奥の方からこみあげてくる筆舌に尽くしがたい、痺れるような浮遊感その事実の前に一切は些事へと矮小化されるのだった。


 ふと、僕は思う。僕は避けようのない強奪により、いつのまにか錆びつき回らなくなっていた地球儀を回し、新たな世界を見ることが出来るようになった。であるならば、やはり他の人々はきっかけがないばかりにこの神聖な快楽を得ることが出来ていないのだ、僕が、一人でも多くの蒙を啓かねば、と。この時僕は不思議と自分の生が肯定されるように感じた。僕の生まれてきた意味を感じたのだ。この先何十年と続く、無為に過ごされていたであろう僕の人生は輝きを帯びつつあった。僕は手始めに、眼前で水棲の哺乳動物と性行為を行う男を救済するため、110番をコールする。ふと、嘔吐感が込み上げてくる、視界がぼやける。症状は少し前よりも酷くなっている、それでも、きれいな満月は導くように前途を照らし出している。僕はそれに従って、新たな人生を踏み出し始めるのだ。

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