第29話 夜蝶。
悦子は時々、愛人のようなことをして食いつないだ。しかし、菊川の様な傑物に巡り合えず、飽きを感じていた。日々を過ごす中でもう一度夜の世界に戻りたいと思うようになった。
悦子はちやほやされるのが好きだ。人と触れ合い話を聞くのが好きだ。可愛がられるのが好きだ。次第にまた働く決意を固め、店を探した。しかし、望んでいた華々しい店は悦子を受け入れてはくれなった。悦子は歳をとり過ぎていた。
「失礼ですけどおいくつですか」
「四十八歳です」
「ウチは三十五歳までしか雇っていないんですよ」
そう返されるのもザラだった。若作りをしていた悦子としてこれほどショックなことはなかった。見た目は三十路そこそこにしか見えない。そう思うのだが店側の反応は違っていて、自分が相当歳をとってしまっていると感じるまでに時間を要した。
一日潰し、事実を受け入れた悦子は探す店を変えた。華々しい店ではなく、熟女キャバクラ。その中へ飛び込めば悦子でもまだ活躍することが出来ると思った。
案の定、面接に行くと担当者はニコニコと応対してくれた。
「お綺麗ですね」
「あら、本当」
悦子は首を傾げる。
「ウチは熟女キャバクラなんですけど。失礼ですがお歳は」
「四十八です」
「三十代にしか見えませんよ」
気をよくした悦子はにっこり微笑む。悦子が経験者であること、有名店銀華で働いていたという経歴もあってか店はすぐに採用を決めてくれた。
「来週から働いてくださいますか」
「ええ、喜んで」
クラブ『夜蝶』、悦子はこの店で働くことを決めた。
捨てずに取って置いたドレスのほとんどは着れなかった。サイズは会うのだが何だかけばけばしい。着こなせる地味なものだけ取っておいてあとは売ることにした。売って手にした金銭で新しいドレスを買った。好むのはやっぱり可愛らしいピンクやらギラギラとした赤なのだがどれも似合わず、上品な黒やら紫を選んだ。客に好かれるホステスにならなければならない、と自分に言い聞かせ不似合いな格好をすることは控えた。
夜蝶には銀華のような雰囲気がなかった。スタッフ同士の距離が近く、信頼して働ける店に思えた。源氏名はやっぱりサクラにした。呼ばれ慣れているので安心だ。
「サクラです。よろしくお願いします」
頭を下げると拍手が起こった。
「とっても綺麗ね。若くて羨ましいわ」
ショートカットの太ったホステスがニコニコとしている。
「アタシは由香利。よろしくね」
由香利も含めて同僚はほとんど年上だった。1人悦子より若い子がいたが悦子が勤めだして1週間ほどで辞めてしまった。
「サクラ、あんた凄いわね」
由香利が手書きの業績表を見て感嘆している。悦子の業績はうなぎ上りだった。この店の楽なところは業績の良し悪しで人付き合いをしないというところ。悦子が人気者になったからと言って羨む者は皆無だった。
その理由はおそらく給料の制度にある。毎月の給料は平等の時給制、半年に一回売り上げに応じてボーナスが出たが毎月の給料に差がないのでそれほど目くじらを立てて競争意識をむき出しにするものもおらず、それがこの店の温かい雰囲気を作り出していた。収入は銀華より格段に低かったが、それでも悦子は満足だった。
ある日、出勤すると店の電気が消えていた。立ち止まろうとするのを後ろの由香利に早く早くとせかされる。暗闇の中、現れたのは誕生日ケーキ。5月15日は悦子の誕生日だった。
「お誕生日おめでとう」
皆の声がくすぐったくなる。祝ってもらうような歳ではないのに。悦子は戸惑いながらふううっとろうそくの火を吹き消した。闇の中数多の拍手が起こる。電気がつくと狭い店内にスタッフとたくさんの客が揃っていた。
飾り付けのされた店内。揃った料理。聞けば皆数日前から誕生日会をやるから来て欲しいと客にこっそり伝え準備をしてくれていたのだという。悦子はその気持ちが嬉しかった。
プレゼントを持参してくれている客も多くユニークなものが多かった。マグカップをくれた人からドレスをくれた人まで。袋から下着が出てきた時には、やあねと言って皆で笑った。おばさんスタッフだからこそ、笑えたのだろう。プレゼントはまとめて、それでも大きな紙袋3袋はあった。はしゃいで少し酔ったので帰りは由香利がタクシーに乗せてくれた。とても良い夜だった。
悦子はそのまま歳を重ねた。五十を過ぎて顔にしわも少し出来た。綺麗にしているつもりだがそれでも歳には抗えなかった。毎日鏡と向き合いながらしわと格闘。まあ、こんなものかと諦める。何も変わりないつもりだけれど、すべてが若い時のように上手くいくというわけではなかった。
ある日、出勤すると
「おはよう、サクラ」
「おはようございます」
「昨日の新聞見た。ひどかったわねあの事件」
「このすぐ近くですよね。ホストが殺されたのって」
「華人って店のホストらしいわ」
「行ったことあります?」
「ないわよ。そんなお金持っていたらもっといい食事するわ」
悦子は笑ってしまう。
「今日も頑張りましょうね」
「はい」
望海は客と付き合っていた。相手はしがないコックで、一流クラブに通うだけの金銭的余裕がなく仕方なしにこちらに来はじめて望海と知り合ったのだという。望海は結婚したいと言っていた。相手も未婚で都合は良かった。
ある日、望海が深刻な顔をして悦子に話しかけてきた。
「サクラ、私今生のお願いがあるの」
「どうなさったんです、大げさな顔をされて」
「契約物件の保証人になってくれないかしら」
「えっ」
嫌な予感がじわりじわりと湧いてくる。
「今度、彼氏が独立して店を開くのね。場所を借りるからその保証人になって欲しいの」
「望海さんがなるのはダメなんですか」
「私も店を辞めて一緒に働こうと思ってるの。従業員は保証人になれないのよ」
「そうですか」
悦子は少し考える。
「あなた大きなお屋敷住んでるでしょ。資産もあるようだし」
給料はあなたと変わらないのよと言いたかったがそれは言わなかった。望海は少し落ち込んでいる風にも見えた。
「……分かりました、お引き受けします」
「ホント? 良かったわ」
望海は胸をなでおろしている。強張っていた表情が緩む。後日彼氏と一緒に会ってその時に書類を作成したいと頼まれ了承した。
「あなた本名悦子って言うのね」
書類にかいた氏名を見て望海が呟く。実印を押すと彼氏に渡した。
「本当にご無理を言いまして申し訳ありません。必ずご恩は返します」
悦子は少しぬるくなったアイスコーヒーを飲むと頷いた。初めて入った喫茶店だが味も香りも中々良い。
「いつ開店なさるの?」
「半年後を目途にしてます」
「それまで私も一生懸命働いて貯めるわ」
望海の幸せそうな顔。二人はまるで新婚夫婦のようだった。
「開店したら1番に御馳走します」
「そう、嬉しい。準備頑張ってくださいね」
◇
「冗談でしょ?」
バックヤードで身支度をしていると由香利が目を丸くして問うてきた。
「あれ、皆頼まれたのよ」
耳を疑いたくなる言葉だった。
「皆断ったの?」
「当りまえよ。保証人何てなるもんじゃないわ」
「でも、困っていて」
「どんな店だか確認した? 相手の腕前は?」
悦子は自分が段々まずいことをしたような気分になってきた。
「今からでも断れるかしら」
「さあねえ」
由香利の口調には深刻さがにじんでいる。その時、望海が入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
そう言って望海は悦子に小さな紙袋を渡した。入っていたのは小さなムースのデザートだった。
「彼からよ。サクラにって」
そう言って優雅に微笑む。
「ありがとうございます」
そうとしか言えず、悦子はただ複雑な気持ちだった。
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