第17話 もうひとつの指輪、後編。

 里香がシャワーで血を落とすのを待っている間、悦子はこれからどうすべきか考えていた。部屋を掃除して何事もなかったかのように装い、テーブルには妻と娘を捨てて富士の樹海へ向かったことを示唆する書き置きを置く。

 この場合、家宅捜索をしたいと言われるかもしれない。そうすると掃除した血の跡はすぐ薬品鑑定でバレる。隠そうとしても見つかる物は見つかるのだ。そうだ、とここでふと思いつく。隠せないのなら隠さなければいい。


 では、隠さずにどうするのか。考えたシナリオはこうだった。里香が帰宅すると部屋に夫の姿はなく代わりに血だまり、ずるずると玄関まで引きずられたあとがありそれは玄関で途切れる。猟奇的殺人に見せかけて警察を撹乱するという算段だ。ただ、この場合即部屋に捜査が入ることになる。もし不審な点があれば里香が真っ先に疑われる。


 というよりそもそも里香の顔がまずかった。腫れあがった顔を見れば暴力を受けたというのは一目瞭然。自殺に見せかける線も考えたが暴力を受けた里香が逆恨みで夫を殺したと判断されるのは自然の流れだろう。では、どうする。

 里香の顔がまずいのなら里香の顔をさらさなければいい。そんな風に考えた時一つの考えがスーッと浮かんできた。


 風呂から出てきた里香は落ち込んだ顔で私やっぱり自首します、と言った。悦子は首を振る。


「いいことを思いついたの」

「えっ」


「里香、貴方も死ぬのよ」



       ◇



「O型とB型の血液です」


 電話の向こうで科学捜査官の声がする。


「間違いないのか?」


 警視庁の網谷警部は問いかえす。


「ええ、二人分です」

「子供もいたようだが」

「見つかったのはO型とB型だけです。子供のものかどうかまでは」


 夫婦二人を殺して死体を持ち去った。子供も共に行方不明。これは骨の折れる事件になりそうだ。網谷はまた連絡くれと言い置いて電話を切る。


 事件が発覚したのは昨夜。被害に遭ったと推測される家主、野田啓介の会社の同僚が連絡がつかず二日間の無断欠勤を不審に思い訪問したところ血の跡を発見したという。玄関にはカギがかかっておらずもぬけの殻だった。妻、郁美の姿も見えず彼女もまた勤務先のキャバクラを無断欠勤。現場に二種類の血液反応があることから子供も一家そろって事件に巻き込まれたと考えられる。


 郁美の周辺が怪しいとにらんだ網谷はさっそく彼女の勤務先へと向かった。




 いわゆる高級キャバクラで非常に華やかな店構えだった。名前は知っていたが入店するのは初めて。ボーイに警察と名乗ると奥から支配人が出てきて事情を飲みこんだらしく、営業時間中一人ずつ暇な子から順に呼ぶからバックヤードで待機して話を聞いてくれと言われた。

 

「こんにちは」


 何人か話を聞いて最後の方であまりに綺麗なホステスがやってきた。網谷は思わず仕事を忘れそうになった。


「ああ、警視庁の網谷というものですがまずお名前を教えてください」

「本名ですか」

「ああ、本名と源氏名をお願いします」


「花村悦子です。店ではサクラです」

「ああ、花村さん。さっそくですがこの頃の野田郁美さんについてお聞かせください」


「のだ……いくみ?」

「ああ、おたくの従業員の里香さんのことです」

「ああ、里香。警察の方がいらしたということはやっぱり事件なんですね」

「それはまだ分かりません。」

「里香は最近しつこい客がいるって困ってました」

「どういった感じで困ってたんですか」


「店終わりに待っていてしつこく付きまとわれるって。自宅の位置も知れたから引っ越したいって言ってました」


 そう言って悦子は神妙な面持ちを見せる。悦子が言ったのはウソではなかった。事実里香はしつこい客に気に入られていた。


「どんな人かご存知ですか」

「お名前までは」

「そうですか。あと、里香さん、悩みがあるとか言ってませんでした」


「店を辞めたいようには言ってました」

「いつ頃から」

「数週間前からです」


「その他のトラブルがあったなんて話は。例えば仲の悪い同僚がいるとか」

「聞いていません。誰にでも好かれるような子でしたから」

「そうですか」


 その後、花村悦子から郁美の普段の様子などについて聞き網谷は聴取を終えた。最後にマネージャーにシフトを確認すると郁美が事件に巻き込まれる前後で急に休みを取ったりしたものはいなかったという。


 

       ◇


 そして現在一時間ほどのひと気のない山中に至る。車に里香の娘と運転手である美原(悦子の客)を残し、二人で協力して通常以上の重さのスーツケースを必死で運ぶと深く入り込んだところで立ち止まる。


「もういいわ。十分」


 悦子の声に里香がふっと息を吐く。


「掘りましょ」


 スコップで悦子が時間を惜しむように掘り始める。里香も無言で同調して掘り出した。


 土が柔らかく思ったより早く掘り進んだ。白魚の自慢の指も気にならず懸命に作業を進めた。十分な深さを確保すると悦子は掘るのを止めてスーツケースを開けた。血だらけの遺体が穴の中に転がり落ちる。

 里香はじっと夫の遺体を見つめた。愛情が無いわけじゃない。好きだった。出来れば死ぬまで添い遂げたかった。そんな彼女の心の声が聞こえてきたようだった。腕の切り傷がうずくだろうか。抱えている。これは里香の、そして悦子の賭けだった。




 時間をさかのぼること数時間前、惨殺した部屋で悦子は夫の遺体を前に里香も襲われたことを偽装すればいいと提案した。夫の血液の上に里香の血液をかけ、二人が襲われたように偽装しよう。部屋はカギをかけず自然に発見されるまで放置すればいい、と断言した。

 運転手は悦子の客の美原と言う男がつとめてくれた。警察が来た場合は知らぬ存ぜぬを通してくれるとの約束だ。里香はすべてに同意した。

 腕を切ると里香の顔が歪む。結構深く傷つけたが、血の量が少ないと里香が生きていると疑われかねなかった。





 遺体に土をかぶせ全て埋め戻すと時が止まったような気がした。悦子が里香の肩を抱き、終わったのよ、と呟く。


 車に戻ると美原は里香の娘をあやしてくれていた。すごく長い時間のように感じたがものの見事に一時間で全てを終えていた。本当はもっと遠くへ埋めに行きたかったのだが悦子自身が怪しまれないよう店にいつも通り出勤しなくてはいけないのでこれ以上遠くにいく選択肢はなかった。スーツケースは途中の山道で崖から捨てた。スコップも一緒に投げた。全て終わった。終わったのだ。


 最寄りの無人駅で里香と子供を降ろす。幸い誰もいない。ここでお別れだ。寂しそうな顔をする里香に悦子はそっと封筒を渡した。中身を見た里香が驚く。無理もない、悦子の全財産だった。スコップを取りに悦子の自宅に寄った時密かに持ち出したものだった。


 里香は泣きそうな声でサクラさん、と呟く。


「泣くのはこれで最後になさい。あなたはこれからその子を守って生きていくのよ」


 里香が静かに頷く。にじみかけた涙を拭くと里香はポケットに手を入れた。取り出したのは裸のダイヤの指輪だった。


「サクラさんこれ貰ってください」


 悦子は不思議そうに見つめる。貰えないわという言葉は自然と出てこなかった。代わりに綺麗ねと呟いて受け取る。


「私が持ってる中で一番高いものです。夫に貰った婚約指輪なんですけど。お礼にもならないかもしれませんが貰ってください」

「ありがたいけれど、持っておいて生活費に充てたら」


 私にはこれがありますから、と悦子の渡した封筒を抱きしめる。


「そう、それじゃあ有難くいただくわ」


 言って悦子は指輪をはめる。


「落ち着いたら連絡を……」

「いいえ、これでお別れよ。バレるようなことはすべきでないわ」


 里香が顔を落として静かに泣き始めた。別れを惜しんでいてもつらくなるので悦子は心を決める。


「元気でね」


 肩をとんと叩くと振り向かず悦子は車へと戻った。悦子が駐車場から駅の方を見ると里香が心許なさそうにこちらを見ていた。それが悦子が見た里香の最後の姿だった。


 数週間後、一人の男が逮捕された。新山昭二という知らない男だった

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