第16話 もうひとつの指輪、前編。

 悦子は取るものも取り敢えず里香の宅へと急いだ。小原には少し出かけるとだけ伝え詳細は話さない。大ごとが起きてしまった。気が動転してスリッパで出かけようとすると小原に靴を履いてください、と呼び止められた。


 いつもの調子で優雅に行ってくるわと微笑みかけて玄関を閉めたとたん呼んでいたタクシーに猛然と飛び乗る。板橋へ、と告げて黙り込んだ。

 道中、頭の中で里香の言葉を思い出す。夫を殺しました、夫を殺しました、夫を殺しました……頭の中でワンワンとエコーのように響いて心音が早くなる。自分のことではないのに心が焦りを感じて思わず足を揺する。タクシーが黄信号に止まったことにさえ苛立ちを感じた。


「急いでるんです」

「ああ、すみません」


 人の好さそうなのんびりした運転手は帽子を少し浮かし謝る。ただ、その後は黄信号を無視してくれたのでこれ以上は言うまいと黙り込む。指で膝をトントンと叩きながら落ち着かない。叩いているというよりそれはむしろ震えに近かった。

 里香は来いとは言わなかった。そうだ、呼ばれていない。ハッとする。そんな根本的なことに今頃気付いた。やっぱり引き返してと言おうとしたところで思いとどまる。里香は自分を頼って掛けてきたのじゃないのか。ここで見捨てるのか、と。


 考え込んでいる間に里香の宅の近くになり、ここで止めてくれと告げる。迷っていても仕方がない、とりあえず里香の所へ行こう。代金を支払い降りて駆けだした。


 里香の部屋は四〇四号室だと以前本人が言っていた。不吉ですよねえ、と笑い話をした記憶があるから。息を切らし一気に階段を駆け上がる。インターホンを鳴らすが出る気配がない。数回押しても出てこないのでドアノブに手をかけた。ドアはカギがかかっておらず、するりと開いた。


「里香、いるの里香?」


 返事はない。代わりに小さくすすり泣く声が聞こえてきた。


「上がるわよ」


 恐々として部屋の中に踏み入る。奥の方から確かに気配がする。


「里香、あたしよ、サクラ。居るんでしょ」


 悦子はリビングに踏み入り絶句する。血飛沫がまるで絵を描くように絨毯や壁に派手に飛び散り、血だまりの上で男性が大の字に倒れていた。里香は力なくそばにぺシャリと座り込みひくひくと泣いていて、傍には凶器と思われる包丁が落ちていた。血だらけの手でスカートのすそを握りしめスカートも血で汚れていた。


 男性の首は派手に掻き切られて目を不気味に見開いたまま。息がないことは一目瞭然だった。そして、そばのベビーベッドで赤子がだあだあと声を上げていた。


「ああ、本当に殺してしまったのね」


 悦子はへなへなと床に座り込む。目の前で起きている現実を受け入れるには相当の時間がかかりそうだった。


「サクラさん」


 そう言って顔を上げた里香の顔を見て絶句する。右目が赤くはれ上がり唇が切れて鼻血が出ていた。目には数え切れぬ涙の筋がある。


「ああ、里香。大丈夫よ」


 震える彼女を抱きしめて頭を撫でた。大丈夫よ、もう大丈夫、と。里香の泣き声が次第に大きくなる。嗚咽を漏らしながら、がっしりと悦子にしがみついた。手に痛いほどの力が込められている。悦子は彼女の不安を抱きとめるように背を擦りながらこれからのことを考えた。




 里香によるとことの顛末はこうだった。里香が帰宅すると起きていた旦那がいきなり顔面を殴りつけ、店に行けなくなると言うと激昂して、てめえが家にいないからいけねえんだと怒鳴りつけたという。聞けば、娘の夜泣きが酷くてあやしていたが泣き止まず、ずっと相手をしていて疲れたという。話をしている最中再び娘が泣き出したのでうるせえ、殺してやろうか、と娘の頬を叩いたため里香は恐怖に駆られ殺害を決意したという。


「私、自首します」


 涙が枯れた里香は静かにそう言った。


「あなたがいなくなれば娘さんはどなたが面倒みるの」


 すると里香がうう、と再び泣き始める。娘のことを考えると悲しくなってしまったのだろう。悦子は目を閉じて決意すると言葉を絞り出した。


「里香、大き目のスーツケースは持っていて?」


 里香が目を見開く。


「何に……使うつもりですか」

「ここから運び出すのよ、山に埋めに行きましょう」


 海では死体が浮いてくるといずれ見つかる。悦子はそんな話をどこかで聞いたことがあった。


 里香は明らかに動揺していた。


「そんなこと」

「やるのよ、やるの。やるしかないでしょ」


 悦子は語気を強める。


「襲われて正当防衛だったってことにすれば……」

「どうしてすぐに救急車を呼ばなかったって問われたらどうするつもり?」

「それは」

「喉を掻き切ってるのよ。良くても過剰防衛。最悪殺したってすぐにバレるわ」

「でも、死体遺棄だなんてそんな」


 言って里香は顔を手のひらで覆った。また、泣き出した。


「私も手伝うから。泣いても解決しないでしょ」

「でも」

「やるの、それともやらないの。どっち」


 里香は考え込んでぐっと目を閉じた後、海外用のがあります、と言った。

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