第15話 里香。

 母の四十九日が終わり悦子はほっと息をついた。法事に関しては分からないことだらけだったのでほとんど家政婦の小原を頼った。小原は細かいしきたりまで懇切丁寧に教えてくれたが悦子にとっては面倒に感じることも多かった。葬儀の時は叔父が喪主だったので大変さを知らなかったが、これほど気をつかうのならば自分でみるなど言わなければよかったと思った。


 母の知人はちゃんと来てくれた。東京観光を兼ねての来訪だった。浅草で人力車に乗ったり、東京タワーに登ったりスワンボートを漕いだり、年甲斐もなくきゃっきゃと楽しかった。いつもは気取り屋の悦子も彼女たちの前だと真摯に振る舞えた。


 ただ、普段の自分と彼女らに見せる自分の落差が激しく、帰った後はどっと疲れた。肩の荷が下りて悦子はいつもの悦子に戻る。ワガママで奔放という厚い皮を被った女。真面目で控え目な自分とどちらが本当の自分か分からない。ただ、東京の夜という虚無の塊で生きていくにはそれが必要だった。




「サクラちゃん一皮むけたね」


 久しぶりにやってきた建設会社社長の美原という男が隣についた悦子をそう褒めた。サクラというのはこの店での源氏名だ。


「あら、どういう意味かしら」

「ちょっと前まで何だか窪んでたよ。それが今はふっくらしてる」

「太ったってことかしら」

「違うよ」


 美原が笑いながら煙草をくわえたので火をつける。彼は煙草を燻らしながらウイスキーの氷を鳴らした。


「何だかすっきりしたみたいだ」

「母の法要が終わったの」


「そうだったのかい。大変だったね」

「ワタシ何にも知らなくて、本当に大変だったわ」

「一つ勉強になったろう」

「ええ」

 

 その日はあまり酒は飲まなかった。気心知れた客が多かったので飲まずに話してばかりいた。売り上げに貢献はしていないがまあ、そんな日もある。


 勤務を終え気分よく控室に戻ると里香がベンチにしがみついて泣いていた。入店して三カ月ほどの新人だ。


「また、泣いてるの?」


 悦子はロッカーを開けて冷たく問いかける。


「だって、マネージャーがもっとちゃんとしろって怒鳴るんですよ」

「あなたがちゃんと接客できていないからじゃない」

「ちゃんとやってますよ」

「不十分なのよ」


「サクラさんみたいに素敵な人には私の気持ち分かりません」

「そんなこともないわ。ワタシにだって新人の頃があるんだから」

「もう辞めます」

「そう、さようなら」


 そう言うと里香の泣き声がひと際大きくなる。悦子は仕方ないとため息を吐き、里香に寄り添う。


「ねえ、辞めてしまうのは簡単なのよ。折角ご縁なんだから頑張ってみない?」


 里香が泣きはらした目で悦子を見つめ返す。


「無理ですう」


 里香がわめきだしたところで同僚の朱美が入ってきた。


「ああ、もう。腹立つ」


 そう言ってロッカーを蹴る。音に驚いた里香の涙が引っ込む。


「どうされたの?」

「ユキが私の客とったんですよ。ずっと来てくれてた人なのに今日見たら隣にユキが座ってて。サクラさん!」

「なあに」

「これから飲みに行きましょう」


 怒り任せにキツイ言葉でそう言う。幸い今日は客とのデートもない。悦子は笑って頷いて、なら里香ちゃんも一緒に、と誘った。





 バーカウンターで三人並びあれこれ話す。女同士の話は止まらない。もっとも喋っているのは朱美がほとんどで悦子は聞くに徹していた。里香は黙ってチマチマとカクテルを飲んでいる。


「大体ユキはあざといんですよ。きわどい格好で来てみたり猫なで声で話したり。私うれしいですうう、ってお前はどこのぶりっ子だよって話ですよね」


 ユキの声真似があまりに面白かったので悦子はケラケラと笑う。


「ユキさんってどなたでしたっけ?」


 里香のそもそもの疑問に朱美が声を上げて満足な笑顔を浮かべる。


「知らないよねえ、そんな奴。里香ちゃんいい子だね」


 三カ月も働いていて同僚の名前を知らないと言うのには呆れたがこの場ではむしろ都合が良かった。


「サクラさん。私、サクラさんみたいな素敵なホステスになりたいです」


 朱美の目に力が籠る。


「そう、頑張ってね」

「ああ、何か今の嫌味っぽいですね」

「そうかしら」

「サクラさんのこと憧れなんですよ。皆、好きなんだから」


 その後、とりとめもない話をして三杯ずつカクテルを飲んだところで一時半、店の前で朱美と別れる。悦子は方向が同じなのでタクシーに里香と乗り合わせた。


「皆さん色々あるんですね」


 里香が窓の外の喧騒を見ながら呟く。


「厳しい世界だもの。みんな悩みを抱えているわ。あなただけじゃない。私もそうよ」

「私、お店に出ると緊張してしまって、上手く話せないんです」

「話さなくていいのよ、聞いておあげなさい」

「えっ」


「中には話さないお客様もいらっしゃるだろうけど話したい方だと思ったら一所懸命話を聞いておあげなさい」

「話を聞く……」


「私もあまり話すのは得意な方ではないの。そんな時はお客様の言葉に真摯に耳を傾ける。じっくり聞いてるとお客様の中には日々の鬱憤を晴らしに来てる方もいるの。そんな方の受け皿になっておあげなさい」

「私に出来るかな」

「ワタシに出来ているからあなたにもきっと出来るわ」


 里香は少し考え込むように唇に手を当てた。


 閑静な住宅街に入り、タクシーを降りるとき里香は笑顔だった。


「サクラさんありがとうございました。私頑張ります」


 手を振って別れる。タクシーの中で悦子は緩やかに手を振った。




 その後、里香の業績は段々よくなっていった。この頃は落ち込むことも減っていた。楽しく働いているようで悦子もほっとしていた。


 そんなある日だった。出勤するとロッカールームで里香がベンチに座り落ち込んでいた。季節外れのコートを羽織り、顔が浮かない。


「里香どうしたの。行きましょ」


 着かえた悦子が声を掛けたが里香は頷かない。


「サクラさん私、行けません」


 コートの下から出した腕を見て悦子は唖然とする。腕には青黒い無数のアザがあった。


 里香はその日、長袖を着て勤務した。季節外れだが、幸い空調が効いていて不便はなかったようだった。何人かになんで長袖なの、とは問われたらしいが顔には傷が無かったので気取られず働くことが出来たという。


 勤務が終わり悦子は事情を聞こうと自宅に招いた。大きな屋敷を見て里香は戸惑っていたが、誰もいないの、気にしないで入って頂戴と招き入れた。


 小原がいないので自分でコーヒーを淹れて運ぶ。温かいコーヒーを飲むと里香の目に涙が浮かんできた。


 暴力は夫からだという。相手が客でないことにはいくらかほっとしたが、それは里香には言えなかった。里香が結婚したのは十九の時。結婚五年目でこれまで暴力は全くなかったという。

 普段は優しい夫だしキレることもなかった。近頃仕事が忙しくそのプレッシャーではないかと里香は話す。とにかくとても怖かったと話し、家に帰りたくないという。

 とはいえ、無断外泊は家族も心配するので電話を勧めた。


「うん、うん、分かった。そうするね」


 電話を終えた里香がしょんぼりしている。


「サクラさん私帰ります」

「えっ」

「帰ってこいって怒ってました」

「そう」


 家族の問題なのでそれ以上は引き留めることもできなかった。


「あまり、無理するんじゃないのよ」

「分かりました。お休みなさい」


 その時の里香の寂しそうな笑顔が心に残った。




 次の日、里香は笑顔だった。あれからどうなったのか聞こうとしたが里香が素知らぬふりをするので聞くのを止めた。家庭に問題がないのであれば、それでいい。今日も里香は元気に帰っていった。ほっとして悦子はデートに向かう。コロンを身にまとうと客と夜の街へ繰り出した。


 朝、小原の呼ぶ声で目を覚ました。一階からお電話ですよと呼んでいる。ぼうっとした頭で降りていく。受話器を受け取る時、小原が里香さんと仰る方ですと言った。途端に目が覚める、里香から電話があったのは初めてだった。


「どうかされた、里香」

「あの……」

「里香」


 落ち着いた声で里香の名を呼ぶ。電話の向こうの声は消えそうに弱い。


「あの……」



「サクラさん私……夫を殺しました」

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