第106話 出立
都会での最後の夜を眠れずに過ごした俺は、美矢と美月との思い出を
スマホに残るメッセージや写真に頼らずとも、あらゆる言葉や映像が、次から次へと頭に浮かんできた。
それは
いつもの缶コーヒーを飲んだ。
向こうに行っても飲み続けるだろうか。
こっちのように自動販売機がどこにでもある訳ではないし、コンビニだってそうだ。
生活は様変わりする。
例えば、一ヵ月や二ヵ月、引っ越しを遅らせたところで問題は無い。
今は
でも、ウチが所有していた農地は、おっちゃんが多少は手入れしてくれてたとは言え、やはりきちんと土作りから始めなきゃならないし、農機具の手入れや整備もある。
おっちゃんの作業も手伝うつもりだから、ハウス栽培もあれば、山林も所有しているので山仕事もある。
忙しくなる春に向けて今から動き出さないと、順調な滑り出しという風に事は運べない。
何より、アイツらを迎えるために早く行動を開始しないと、俺自身が落ち着けない。
やるべきことは、多すぎるくらいにあるのだ。
この季節にしては、暖かくて風も無い日だった。
深夜に向こうを
手伝いに来てくれた二人も、何だか物足りなそうだ。
いや、不機嫌そうと言うべきか。
別に出発時間を決めていた訳ではないが、作業が終わってしまうと、後は出発するのを待つだけ、という雰囲気になるのを嫌ってるようだった。
でも、
おっちゃんがトラックのドアに手を掛ける。
「孝ちゃん、そろそろ──」
「私、サンドイッチ作ってきたから食べよう?」
まるで、そのタイミングを待っていたかのように美矢が口を挟んだ。
「みゃーちゃん、悪いけど、それは車の中でいただくよ。暗くなる前に向こうに着きたいからね」
珍しく、美矢が表情に不快感を出した。
珍しいと言うより、初めてのことだった。
おっちゃんが困ったような顔を俺に向ける。
「俺はもう行くよ」
優しい笑顔など求めてないかも知れないけれど、俺は二人に笑い掛けずにはいられなかった。
今は二人きりでも無いし、ベッドのある部屋でも無い。
だから、美矢と美月を一緒に、俺は強く抱き締めた。
知ってる匂い、知ってる温もりなのに、直接それらが伝わってくると、胸が苦しくなるくらいの愛おしさが込み上げてきた。
そして、胸が痛くなる思いで、二人から身体を離した。
「じゃあ、元気で」
二人の頭をポンと叩き、俺はトラックの助手席に乗り込む。
「こーすけ君!」
エンジンがかかる。
「行っちゃヤだ!」
え?
「一日延ばそ? 明日でもいいでしょ? おじさんも、今日は泊っていってよ、ね、私、御飯作るから!」
美矢……。
「行かないで! 行っちゃヤだよ!」
あの美矢が、涙で顔をくしゃくしゃにして
いつも笑って、人を気遣える美矢が、取り乱して、子供みたいに泣き叫ぶ。
「こーすけ君!」
っ!!
「こーすけ君! こーすけ君!」
車に取り
美矢は、ずっと我慢してきたんだ。
笑って、明るく振る舞って、でも本当は、まだ高校生で、弱くて、不安で、自身が出来ることは限られていて……。
「孝介さん」
美月が、美矢を後ろから抱き締め、俺に呼び掛ける。
いつもとは逆で、美月の方が落ち着いていた。
「こやつめを、黙らせてあげてください」
美月の指は、美矢の唇を指す。
え?
「タマちゃん、離して! こーすけ君が行っちゃう!」
後ろから抱き締めるというより、
でも、美月の意図は理解した。
俺はトラックの窓から身を乗り出し──
「こーすけ──んっ!?」
その唇を
可愛くて、柔らかで、愛らしい声を
ロマンチックな雰囲気だとか、情熱的なとか、そんなものとは違うけれど、求める感情がぶつかり合う、
美矢は目を見開き、まるで電池が切れたみたいに動きを止めた。
「行くよ」
おっちゃんが言う。
車が、動き出す。
美矢の思考はまだ止まったままのようだけど、美月が寂し気に笑って、小さく手を振った。
心配はいらない。
二人はどんな時も、お互いを助け合ってくれる。
どうか、元気で。
俺が願うのはそれだけでいい。
慣れ親しんだ風景の中を走る。
また二人に会いに来るだろうから見納めという訳ではないが、流れる景色を見る目に力が入る。
二人が通う高校、よく利用したコンビニ、
次に来る時には、知ってるものが無くなっていたり、知らないものが増えていたりするのだろう。
こうやって目に焼き付けた風景でさえ、
そういえば──え!?
「おっちゃん、停めて!」
自分が何を見たか理解する前に、俺はそう言っていた。
ただ視野の隅に
トラックが停車すると同時に、俺はドアを開け、外に飛び出した。
もしかしたら違うかも知れない。
そう思いながら走り、けれどそれが間違い無いと確信したとき、俺は走るのを止め、それに歩み寄った。
しゃがむ。
「お前も、来るか?」
それは、いや、そいつは俺に身体を摺り寄せてきた。
「にゃあ」
言葉は判らないけれど、どこか通じ合えている気がする。
俺はサバっちを抱きかかえ、トラックに乗り込んだ。
一人と一匹で、あの二人を待とう。
それはきっと、楽しくて希望に満ちた日々だ。
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