第97話 転機
合鍵の弊害が出てきた。
会社に着いて上着を脱いだところで、社長に呼ばれる。
もっとも、二人だけの会社だから、俺の席から社長の席まで三メートルほどしか無い。
「何だそれは」
声には
「は?」
俺には理由が判らない。
「ワイシャツを脱いでみろ」
「……あ」
背中に二つのキスマーク。
アイツら、いつの間に……。
「どうやったら朝っぱらから背中に口紅が付くんだ? しかも上着を着てるのに」
社長の機嫌が悪くなるのも仕方がないが、俺は何故か笑ってしまった。
「何がおかしい!」
「すんません」
社長と言っても、以前にいた会社の先輩で、歳も三つほどしか違わないから、それほど堅苦しい言葉遣いはしない。
ただまあ何と言うか、起業して社長になってからは、以前のおおらかさや兄貴肌っぽいところが薄れてしまった。
俺は社長だ、みたいな態度を見せることが増えたのは、余裕が無くなったからかも知れない。
それはともかく、何と言い訳したものか。
「お前、まさか女の家に入り
どっちかと言うと逆?
女が俺の家に来て悪戯しました、ってか?
しかも女子高生二人です、なんて言えないよなぁ……。
「お前もそろそろ結婚していい歳だから、女遊びをするなとは言わんが、ちょっと
「女遊びなんてしていません」
流せばいいのに、俺はキッパリと言い切った。
言い訳が難しくなるとしても、何故か否定しておきたかった。
「だったら何でキスマークが付いてるんだ!」
「付き合っている女性がいます」
あの二人は、軽い気持ちの悪戯で、そして俺への愛情表現のつもりだったのだろう。
注意するくらいで、あの二人はちゃんと理解する。
「……そうか」
何故か、社長は沈痛な面持ちになった。
え? 俺が女性と付き合うと、何かマズイことでもありますか?
「お前には、経理もやってもらってるから、判るだろ?」
確かにそれだけで、社長の言いたいことが判ってしまった。
会社の業績は良くない。
俺に彼女がいて、結婚も考えているなら、未来は明るくは無い。
そのことが、社長の表情を曇らせている。
でも俺は、予定より早いとはいえ、そのことは想定していた。
「心配ご無用です」
少なくとも、心配してくれているこの人に、負担をかけないようにしよう。
退職金や新たな就職先、そういったものはアテにしないでおこう。
ただ、俺はあの二人を最優先する。
がむしゃらに働いて、潰れそうな会社と心中するつもりも無い。
「早い方がいいんですかね。それとも、粘るんですか?」
「……あとは俺の未練だけだよ」
社長は目を
自分が
それに重ねるのはおかしいが、俺があの二人を失ったとしたら、どれほどの未練に
そんなことを、ふと考えてしまう横顔だった。
帰り道でラーメン屋の親父さんに出会う。
店先に立って、建物を眺めている。
営業時間のはずだが、店内は暗く、看板の照明も
「今日は休業ですか?」
「ああ、兄ちゃんか。いや、見納めだからね」
「見納め?」
「営業は昨日でお終い。明日から解体作業が始まるんだ」
「えっと、店舗を新しく?」
「いや、マンションが建つんだよ」
よく見れば、店の入口のドアに貼り紙があった。
毎日、店の前を通っていたのに、気付かずにいた。
「まあ、俺も歳だし、景気も良くないしな」
さっき見た社長の顔と
未練、名残惜しさ、それから、口惜しさもあるかも知れない。
長年、店を切り盛りしてきた誇りや苦節が、その顔に刻み込まれている。
そんな人が作るラーメンを、俺は食べ損ねてしまった。
いつか店に寄ろうと考えていたのに、それも出来なくなってしまった。
「おいおい、兄ちゃんがそんな寂しそうな顔すんなよ」
「いや、でも、一度もお伺いせず、不義理で……」
「いいっていいって。それに、ほら、みゃーちゃんとタマちゃんだっけ? 二人は何回か来てくれたよ」
アイツら……。
「学校帰りでさ、こんな小汚い店に制服姿の可愛い子達だろ? 他のお客さんから注目浴びちゃってねぇ。ひやかすオッサンもいたりしたけど、みゃーちゃんがまた上手く相手するんだ。タマちゃんの方は、ちょっと居心地悪そうだったけどね」
俺の知るアイツらは、俺の知らないところでもアイツらだ。
子供のくせに変に義理堅くて、片やニッコニコで周りを明るくし、片や不器用で、ぎこちない笑みを浮かべていたのだろう。
「親父さん」
「ん?」
「お疲れ様でした」
「何だ、しみったれた顔して」
「いや、でも、これからどうされるんですか?」
「特に考えてねぇけど、まずは古女房と海外旅行でも行こうかってね」
「え?」
「いやそれがさ、思いのほか高く売れて、老後は悠々自適よ」
「は?」
「さっきも新車を買う契約してきたとこでさ。いやこれがいい車で」
おいコラ、商売人の誇りの顔はどこ行った?
店を手放す
「猫達、どうすんのかなぁ」
「え?」
「工事中、そこの路地は立入禁止になるし、建物ぶっ
サバっち達は、場所が変わっても、
でも、もう会えなくなるのだろうか。
「それからアンタ達もさ」
「え?」
「アンタ達の居場所から、追っ払うみたいなことになって申し訳ねぇなって」
「いや、そんなこと! いつもお邪魔して、その、ありがとうございました」
「よく判んねぇけどさ、アンタら、外野からは良く言われねぇ関係かも知んねぇけど、俺はアンタらを見るのは好きだったな」
「……」
「ここで会えなくなるのは困るだろうけど、どうかいい転機にしてくれ」
「……ありがとうございます」
「元気で、上手くやんなよ」
「はい」
最後に親父さんは、やっぱり少し、寂しそうな顔をした。
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