第96話 靴

仕事からの帰り道、家まであと僅かという距離で、俺の部屋に明かりがともっていることに気付く。

あれ、消し忘れたっけ?

そう思うと同時に、合鍵のことを思い出した。

みゃーかタマ、あるいは二人ともか。

いずれにしても、迷惑ということは無い。

自分の家に明かりが灯っているというのは、何となく嬉しいことだと思う。

いや、それこそ十年以上、俺は暗く誰もいない部屋に帰る生活を続けてきたんだ。

部屋の明かりは、胸の奥に光が灯ったみたいにみてくるものがあった。


玄関のドアを開けると、一足のローファーが目に入る。

みゃーか。

あれ? 何でくつだけでみゃーと判ったんだろう?

二人とも黒だし、サイズなんて聞いたこともなければ、どっちが大きいのかすら知らない。

うむむ……。

俺は玄関にしゃがみ、しばしローファーを観察する。

目立つ汚れは無く、きちんと手入れされているようだが、入学時からいているのか、それなりにくたびれている。

光沢も落ちているし、買い換え時であるから、一緒に買いに行くのもいいかも知れない。

かかとはそれぞれ外側がややり減っている。

微妙にハの字形に足を運んでいるのだろう。

多分、タマだと中央が減っているはずだ。

何となくだが、二人の歩き方、性格を考えるとそうなる。

それにしても、世の中には靴フェチというか、女子の靴が盗まれたりといった事件があったりするが、俺にはよく判らない世界だ。

まあ好きな人が身に着けた物、という意味でなら、執着が芽生えるのも判らんではないが、靴にこだわる必要は──

そうか、ある種の匂いフェチなのかも知れない。

それも俺にはよく判らない世界だが、あの手の人達は、いい匂いよりも、くさい方を好んでいる気がする。

そういう意味では、靴というのは匂いの強いブツ、ということになるだろう。

いや、待てよ。

ギャップ萌に近いものかも知れんぞ。

可愛い女の子なのに臭い、もしくは汚い、そういったギャップに興奮する人達である可能性も考慮すべきだ。

何故なら、断言してもいいが、見るからに臭そうな、あるいは汚ならしい女の子であったなら、彼らは彼女らのブツに、興奮を覚えないはずだからだ。

だからまあ、そんなことを考えていた俺が、出来心でふと靴の匂いをぎたくなっても、ある意味、仕方の無いことではあると言える。

ものは試しだ、理解し難い世界を否定するのではなく、自ら足を踏み入れてみるのは、それが靴だけに、経験として必要な──

「何してるの?」

みゃーの靴は、既に俺の鼻先にあった。

みゃーの靴を目の前にして、俺はみゃーの存在をすっかり忘れていたのだ。

そのことは、みゃーに見られたという事実に、より大きな驚きをもたらしたが、同時に、俺は靴の匂いを嗅ぎ取っていた。

ほんの微かな、いや、ほのかなと言うべきか、足特有のっぱいような匂いが鼻腔びこうくすぐった。

そう、擽ったのだ。

みゃーに見つかったこともさることながら、俺はその事実の方に驚愕した。

不快感は一切無かった。

嫌悪感も当然無い。

寧ろ匂いが薄すぎて、更に匂いの元を辿たどってみたくなるほどだった。

それは、胸の奥にポッと灯った、柔らかで温かい光の導きのようであった。

「こーすけ君?」

おっと、俺は返事すら忘れていたようだ。

「いや、実は──」

あれ? 何て言い訳すればいいの!?

俺は現実に引き戻された。

「もしかして、私の靴、臭い?」

みゃーは悲しそうな顔をした。

ここで臭いと言えば、俺の罪は帳消しになるような気がする。

だが、みゃーを悲しませるような、そんな嘘を俺が言えるはずが無い。

「臭い訳が無いだろ」

俺は笑顔でそう言った。

たぶん、全てを受け入れるような笑顔だったはずだ。

だが、全てを受け入れる笑顔は、逆に俺を窮地きゅうちおとしいれる。

「じゃあ、何で靴の匂い嗅いでたの?」

そう、こうなることは判っていたんだ。

判ってはいたけど、俺はみゃーを悲しませたくは無かった。

いや、待てよ。

先日の、タマのパンツの時もそうだったように、判り合えるかも知れない。

愛があれば。

「みゃーが身に着けた物だから」

これだけで判ってくれ。

これ以上の説明を加えると、変態っぽくなってしまうのだ。

「でも……」

くそ、足りないか。

いや、でも、あと一息か?

「可愛い花が咲いていたら、匂いを嗅ぎたくなるだろ? それと同じだ」

「靴が、可愛い花?」

そこは疑問を挟むな。

いや、まだ活路がある!

「可愛い花が触れていた物、だ」

嘘では無い。

「それって私が……えへへ、もう!」

照れた。

いや、デレた!

「でも、恥ずかしいから、あんまり嗅いじゃヤだよ」

「ああ」

タマの時とは違った決着が付いたが、結果オーライだ。

何より、みゃーが可愛くて純真で、胸が痛くなるほどだ。


部屋に入ると、ご飯の準備が出来ていた。

料理の匂い、みゃーの匂い、そういった生活の匂いが、俺の疲れをほぐしていった。

明かりだけでなく、匂いが、帰りを迎えてくれる。

それは何て温かくて、心の安らぐことなのだろう。

誰かが俺の帰りを待ち、人の営みを湛えた空気が包んでくれる。

それは俺の望む──

あれ? みゃーは?

「くさーい!」

まさか!?

玄関を覗くと、みゃーが俺の靴を手にして、顔をしかめながら笑っていた。

臭くても笑顔になれるのは、愛があるからだろうけど……。

「何かクセになるー」

みゃーは、靴を鼻に近付けては離すという行為を繰り返し、その度にけらけら笑った。

頼むから、変な性癖に目覚めないでくれ……。

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