第90話 始動

秘密基地に着くと、みゃーがサバっちの相手をしながら難しい顔をしていた。

サバっちは素知らぬ顔だが、みゃーの方も、サバっちを見ているようで見ていない。

「みゃー」

もしかしたら、既にタマから聞いているのかも知れない。

取り敢えずタマには合鍵を渡して留守番をさせているが、俺が家を出てから、みゃーに電話した可能性はある。

「お前に言っておかなきゃならないことがある」

予想に反して、みゃーはニコッと笑った。

いつものような元気な笑顔では無いけれど、柔らかくて優しいものだった。

それは、ついさっき見た、タマの笑顔と似ていた。

仕事を休んでタマの傍にいるべきかと思った俺に、玄関まで送り出して見せてくれたものだ。

「タマを──」

「さっきタマちゃんから聞いた」

表情は、柔らかいままだ。

抱き締めたことまで、タマは話したのだろうか?

「タマちゃんは謝ってたけど、謝るのは違うよね」

確かに違う。

タマがお願いした訳でも誘ってきた訳でも無い。

俺が俺の意思で抱き締めたのだから、謝るとすれば俺の方だ。

いや、でも、俺は謝るつもりは無い。

それは何か違うような気がするし、タマにもみゃーにも失礼に思える。

「頭で考えてした行動では無いけれど、そうすべきだったと思う」

みゃーがまた、優しく笑う。

「うん、私もそう思うよ」

「アイツには、受けるべき愛情が足りていない。それを、俺が補えたならって」

「うん、それでいいと思うよ。寧ろ、そうしてなかったら、こーすけ君に怒ってたかも」

抱き締めることが、正解だったとみゃーは言う。

そう思えるだけの境遇だと、知っているのだろう。

「タマちゃんが家出をするのは、今回が初めてじゃないんだ」

「え?」

「過去に二回してる」

「そ、その時はどうしたんだ!?」

俺と知り合う前、アイツはどこで夜を過ごした?

危険な目に遭わなかったか?

その時は、誰がアイツを抱き締めてやれた?

「私の家に泊まったから大丈夫だよ?」

胸を撫で下ろす。

でも、アイツの傍に、俺やみゃーがいなければ、アイツはどうするんだろう……。

「こーすけ君、お父さんの顔になってる」

「いや、でも」

「それで、いいのかも知れないね」

「それは不満だって前に」

「こーすけ君は、お父さんであり、恋人であり、タマちゃんは、娘であり、恋人であり、時には娼婦である」

「最後に、変なの混じってるぞ」

「でも、男の人って、そういうのが好きなんでしょ?」

「まあ、否定は出来ないが」

「たぶん、タマちゃんは言ってないだろうけと、隠してる訳じゃなくて、言い辛いだけだろうから私から言うね」

何を言う気なのか。

あまりに真剣な眼差しに、俺はたじろいでしまう。

「タマちゃんは、お父さんの浮気相手との間に出来た子で、本当のお母さんが亡くなった五歳の時に引き取られたの」

……だから?

俺は最初にそう思った。

予想もしていない大きな事実であるはずなのに、だから何だと俺は思った。

それが、そのことが、あんないい子に愛情を注がない理由になるのか?

だから誕生日プレゼントも貰ったことが無いって?

それが、生まれてきたことを祝われない理由になるって?

浮気相手の子? だから何だ? タマは不器用だけど真面目で真っ直ぐで、人の気持ちはちゃんと汲み取るし、優しい子だ。

何より、俺に両親がいないと知った時、みゃーを使って俺を慰めたではないか。

本当はお前が欲していたものを、俺に与えようとしたではないか!

偽悪家ぶって澄ました顔して毒舌や下ネタばかり言って、そのくせお前はいつだって、人のことばっか考えやがって!

お前は!

「……こーすけ君」

雑居ビルの壁を、俺は力任せに殴ろうとしていた。

そんな、激情に飲み込まれそうになる俺を、みゃーの声がしずめてくれる。

いつになく静かで、労るような声に救われる。

ならば俺は、いったい何をしてやれるだろう?


「みゃー、お前の住むアパートに、空き部屋はあるか?」

「え?」

覚悟、と言うほどのものでも無い。

俺は、すべきことをするのだと思えた。

「あるなら押さえておいてほしい。敷金とかは俺が用意する」

「え? それって、でも」

「家賃も毎月払う。俺の傍に住まわせるのはリスクが大きい」

「家を出ろってこと?」

みゃーの方は、少し苦痛を伴うような表情をした。

「それはタマの判断に任せる。ただ、逃げたくなった時に逃げられる場所を確保しておきたい。だから住まなくても構わない」

「そんなの、タマちゃんは望まないよ! こーすけ君の負担が大きすぎる!」

負担では無いんだ。

「抱き締めた時に思ったんだ」

「……」

「タマは、俺の家族だ」

「!」

「みゃー、お前もだ」

「それは、嬉しいけど、でも……」

「家族の幸せのためにかける費用は負担では無い」

「……なんか」

「?」

何だ?

みゃーが、まるで何か力を込めて、笑いをこらえるような顔になる。

やがて、溜めていた鬱憤を解き放つように、

「なんか燃えてきた!」

と言った。

「は?」

予想外の言葉が出てきた。

「ずっと受け身だった。でも、行動に出ていいんだ!」

「あ、ああ」

みゃーに圧倒される。

「ずっと親の顔色をうかがって、自分の居場所の無かったタマちゃんが、親なんか蹴飛ばして自分の巣を持てるんだ!」

目がキラキラしてる。

意気軒昂けんこうとしている様子に、今度は俺が冷静になる。

家を出ます、はいそうですか、という訳にはいかないだろう。

強引に家を出るとしても、お金の出所が怪しまれるだろうし、タマの親を納得はさせられなかったとしても、犯罪にならないような形だけは整えておきたい。

俺だけでは無理だ。

どうしても、みゃーママの協力が必要になる。

そもそも、俺はタマの両親との交渉に、入ることさえ出来ない。

「私のお母さんの出番?」

ニッコニコだ。

なんて尊い笑顔だ。

それは、やっぱり家族だということを気付かせてくれる。

面倒で、場合によっては争いになりそうな事柄なのに、みゃーは負担とは考えていない。

たぶん、みゃーママも同じだろう。

「明日、みゃーママは休みだよな?」

「うん、土日は休みだよ」

「今夜は、そっちでタマを泊めてやってくれ。明日、俺もお前の家に行く。いいか?」

「おっけー!」

動き出せる。

俺にはもういないと思っていた家族のために、俺は動き出せる!

「よし、時間も時間だし、詰まんない仕事をとっとと片付けてくるか!」

「こーすけ君」

「ん?」

みゃーの、さっきまでとは違う、少し力無い笑顔。

「私が必要な時は、私のことも抱き締めてね」

「あ、ああ」

「私だって、何も胸が痛まない訳では無いんだぞ」

みゃーはそう言って、俺の胸に軽くパンチをかまし、笑顔で駆けていく。

俺は、あの笑顔を、決して曇らせてはならない。

二人は、大切な家族だ。

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