第86話 家出少女

「孝介さん」

控えめなノックの後に、タマの声が聞こえてきた。

時計を見ると、時刻は夜の十一時を過ぎている。

今日は木曜日で、そもそもタマの来る日ではないし、こんな時間にどうしたんだろう。

「あなたのタマが参りました」

か細い声には、どこか懇願こんがんするような響きがあった。

俺は既に寝間着姿だったが、着替えずにそのままドアを開けた。

いつの間にか、外は雨が降り出していて、タマも少し濡れているようだった。

「どうした、こんな時間に」

取り敢えず玄関に入れる。

濡れたタマは、濡れた仔犬のような目で俺を見上げる。

「家出少女を泊めてあげてほしいのですが」

家出少女?

また面倒そうなキーワードが飛び出してきたな。

「時間も時間ですし、この雨なので困っているのです」

タマの知り合いなら限られてくる。

というか、みゃーといろはちゃんしか思い当たらない。

みゃーが家出するとは思えないし、そもそもアイツなら直接来るだろう。

「いろはちゃんか?」

「……」

「外で待ってるのか?」

「泊めてくれますか?」

「誰か判らんことには返事のしようもない」

いや、誰であろうと泊める訳にはいかない、か。

それとも、事情によっては考慮すべきか。

「私が家出少女なのですが」

「帰れ」

「……一顧いっこだにせず?」

「お前の家は目と鼻の先だ」

「いろはさんなら泊めていたのですか?」

「相談には乗ったかも知れないが、泊めはしない」

「みゃーなら、どうしてましたか?」

「同じだよ」

「私には理由を聞きもしないのに……」

あ、しまった!

そう思った時には、タマは涙をこぼしていた。

くそっ、俺はバカか!

家出したってことは、親とケンカしたってことだろう。

普段から親とあまり関わりを持たないタマがケンカするってことは、それなりの理由があるはずなんだ。

この時間だと、みゃーにしろ、いろはちゃんにしろ寝ている可能性はあるし、それぞれ家族と暮らしているのだから、迷惑を考えたら気安く頼る訳にもいかない。

身近で頼れるとしたら俺しかいないのに、それを、頭ごなしに帰れなんて。

「すまん。いや、ごめん」

俺はタマの手を引いて部屋に上げ、まずはソファに座らせた。

タオルを持ってきて、濡れた髪を拭く。

チョーカーの鈴が小気味よく鳴るが、タマは黙ってうつむいている。

温かいココアを淹れてやる。

俺はココアを飲まないから、それはタマ用に買ってあるものだ。

マグカップも、タマの愛用のものだ。

週に一回、たった二、三時間過ごすだけの場所に、タマの物は随分と増えていた。

みゃーが言っていた。

タマは家での食事中に会話は無いのだと。

ならば、たとえ週に一回であっても、ここでの食事は、タマにとってり所のようなものではないのか。

まるで、自分の巣を作るかのように、少しずつ、自分の物を増やしていった。

「何があった?」

ココアを半分ほど飲んだところで、俺は訊ねた。

タマは様子を窺うように、上目遣いで俺を見た。

ソファの上で、膝を抱えてマグカップを握り締める姿は、寒さで身を縮めているようにも見えた。

「先に風呂に入るか?」

本当に寒がっている訳では無さそうだが、温かい風呂に入れば、心もほぐれるだろうと考えた。

ただ、風呂に入れてしまうと、もう泊めることは確定してしまいそうだが。


タマが風呂に入っている。

今まで、アイツらと泊ったことは二度ある。

実家に帰ったときと、俺の誕生日のときだ。

どちらもみゃーがいたし、実家のときは隣家に風呂を借りたから、生々しさは感じなかった。

だが、今は二人きりだ。

風呂場から聞こえてくる水音ですら、変に意識してしまいそうになる。

いや、そんなことよりも、まずは泊めるか泊めないかだ。

泊めるにしても一晩だけで終わるのかとか、そうであったとしても、親への連絡とか、考えなければならないことが沢山ある。

「孝介さん」

ん? 洗面所からタマが俺を呼ぶ。

ワンルームとは言え、死角になる洗面、脱衣スペースがあったのは幸いだった。

「私、着替えが無いのですが」

!? そうだった! アイツは手ぶらでここに来たではないか!

いや、だから何だ。

「同じ服を着ればいいだろ」

そう、何も着替える必要は無い。

大体にいて、現代人は清潔すぎるのだ。

着替えなければ水や洗剤も使う量が減り、環境に優しくなれるのである。

「上はともかく、下着は嫌です」

くそ、こんな時にまで我儘を……。

あ、そういえば。

「お前が前に置いていったパンツがある」

「……孝介さんの使用済みを履けと?」

「使っとらんわっ!」

「……」

何が不服なのか、沈黙で抵抗してくる。

でも、少し元気になったようだ。

俺はクロゼットの奥から例のパンツを出し、部屋着用のスウェットを用意する。

「パンツがあれば、あとはワイシャツだけで構わないのですが」

「だあぁ! 身を乗り出すな! 引っ込んでろ!」

洗面所から顔だけ出したタマを怒鳴りつける。

下着の上からワイシャツだけなどという、そんな扇情的な姿をされてたまるか!

どうにかこうにか納得させ、数分後、ダボダボのスウェットを着たダサ可愛いタマが出てきた。

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