第58話 天使
路地に入ったところで足を止めた。
みゃーがサバっちと戯れている。
その横顔に普段の幼さは無くて、どこか母親のような豊かな笑みを湛えている。
秘密基地に届く柔らかな光の中で、一人の少女と一匹の猫が語らうようにじゃれ合うのを、俺は黙って見ていた。
「よ、お嬢ちゃん、おはよう!」
ラーメン屋の二階の窓から、店主の親父さんがみゃーに挨拶する。
「おじさん、おはよー」
顔見知りになっていたらしく、みゃーは人懐っこい笑顔を浮かべた。
「昨日の晩、猫達が騒いでたからケンカでもしてたんじゃねーかな。そいつ、怪我してないかい?」
「うーん」
みゃーはサバっちの身体をまさぐり、股間まで覗いてから「だいじょーぶ!」と元気に答える。
「そりゃ良かった」
猫だけでなく、コイツは色んな人と仲良くなれる。
悪意なんて持ち合わせてなさそうだから、ついつい周りは心を許してしまうのだろう。
親父さんも、みゃーに釣られてしまったみたいな笑顔になる。
路地裏に届く淡い光でさえ、アイツを照らすために降り注いでいるようだった。
「こーすけ君」
立ち尽くすように見ていた俺に、みゃーが気付く。
ラーメン屋の親父さんはもういない。
足元のサバっちを撫でながら、みゃーが俺を笑顔で迎える。
朝の喧騒もどこか遠い、静かな秘密基地のひととき。
「がんめんきじょうゆって、なに?」
「ぶはっ!」
いきなりだった。
さっきまで天使みたいだと思っていた存在から、不意打ちを食らった気分だ。
コーヒーを噴き出してしまったが、サバっちも学習したのか、ひょいとみゃーの膝に飛び乗って避ける。
顔面、生醤油?
いや、判ってる。
みゃーが、タマちゃんから聞いた言葉を、意味も判らず間違って憶えたであろうことは。
しかし、教えていいものなのか?
この純真無垢な瞳で見られると、罪の意識さえ芽生える。
だが、いずれは通る道だ。
人は、いつまでも子供ではいられない。
顔面騎乗位がみんなが通る道とは思わないが、それに近いことは多くの人がやってるんだ。
……二十九年間やったことの無い俺が言うのも何だが。
「下に何も履かずにだな」
「うんうん」
「男の顔に
「うんう、ん?」
「まあ、鼻に
みゃーが顔を赤くして固まっていた。
頭から湯気が出そうなくらいに真っ赤っかだ。
「む、む無理!」
「え?」
「そんな恥ずかしいこと無理! 絶対無理! 死ねる!」
うーん、嫌と言うよりは恥ずかしいのか。
何となく、からかいたくなってくるなぁ。
「俺がしたいって言ったら?」
「あ、後で一緒に死んでくれる?」
「顔面騎乗位のために心中!?」
「だって、和式トイレの下から覗かれるようなものなんだよ!?」
そういう発想は無かったなぁ。
まあ、抵抗があるのは仕方無いか。
コイツはそもそもエロく迫ってきたけど、感覚的にはスカート
エロと言うより、エッチなイタズラ。
「あれ? そういや、俺が触ったペン、本来の用途以外に使ったって言ってたな?」
「え、うん」
「何に使ったんだ?」
判った上で訊くのもどうかと思うが、それなりの変態行為ではなかろうか。
「えっと、お口に……出し入れ」
人差し指を唇に当てて、舌をチロッと出す。
エロい。
エロいが想像したのと出し入れした場所が違う。
でもまあ、今はこれでいいのかも知れない。
俺はみゃーの頭をポンポンと叩いた。
「子供扱いしてる?」
ちょっと不満げに、ちょっと不安げに、覗き込んでくる瞳は愛くるしい。
「いいんだよ、まだそれで」
「でも、タマちゃんなら出来るかも」
「タマちゃんはタマちゃん、お前はお前って言ったろ?」
「それはそうだけど……」
最近、みゃーは
それは悪いことという訳でもなくて、女性らしさを獲得していく過程にあるのだと思う。
今までが天真爛漫すぎたのだ。
「こーすけ君、ごめんね」
「何がだよ」
顔面騎乗位なんて、出来なくたって全然構わない。
「逆ならしてあげられるかも」
逆!?
逆顔面騎乗位だと!?
俺はその言葉に戦慄した。
そして逆顔面騎乗位の絵面を想像して、俺はそのキモさに卒倒しそうになったのだ。
「みゃー」
「ん?」
「お前の、その献身的な気持ちだけで嬉しいよ」
「献身的?」
「いや、だって、そんな汚いこと……」
「こーすけ君が汚いわけないよ?」
真っ直ぐな瞳で、俺を見つめてくる。
くっ、逆顔面騎乗位を提案しても、天使は天使なのか!
俺は、心が浄化されていくのを感じた。
二人を祝福するように、路地裏に淡い光は降り注いでいた。
「やる?」
「やらねーよ!」
天使は意外と、罪作りだった。
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