第56話 金曜日の妻
金曜の夜。
仕事から帰ってしばらくすると、呼び鈴が鳴った。
今時インターホンではなく呼び鈴なのである。
「孝介さん、あなたのタマが参りました。ドアを開けてくださいまし」
「……」
タマちゃんには、やはり一緒に登校するのは止めようと言った。
何かと人目に付くし、そこから三人の大切な関係が壊れたら、何よりタマちゃんが傷付くことになる。
積極的にして従順というスキルを手に入れたタマちゃんは、素直に俺の言うことを聞き入れた、のだが。
ドアを開ける。
「あなたのタマが参りました」
嬉しそうに、ふわっと笑う。
やっべー! くっそ可愛い!
という思いなどおくびにも出さず、俺は静かに家に招き入れた。
一緒に登校は諦めたけど、こうやって金曜の夜は、家に顔を出すようになった。
「今日は豚の生姜焼と、ほうれん草の胡麻和えと、山芋の短冊、だし巻き卵に、あさりのすまし汁を作ります」
手にはスーパーの袋を下げている。
「悪いな。もっと手抜きでもいいんだぞ?」
「手で抜くのがいいのですか?」
「言ってねーよ!」
下ネタは相変わらずだ。
「みゃーとも話していたのですが」
キッチンで、手際よく調理の準備を始めながら話し掛けてくる。
「何だ?」
「孝介さんインポ疑惑というのが出てまして」
「ぶっ!」
「でも、よくよく考えると、始業式の日に素股の話をすると、歩きにくそうになさっていたことを思い出しまして」
「……」
「親が面倒見ないと息子さんは可哀想だな、って結論になりました」
「ちゃんと面倒見てるからほっとけ!」
「……それはそれで、少し寂しいのですけどね」
「え?」
心地よい包丁の音で、タマちゃんが何を呟いたのかは聞き取れなかった。
タマちゃんは料理の経験はあまり無いようだったが、お菓子作りがあれだけ得意なのだから、やはりその辺の才能はあるみたいで、割と何でも器用に作る。
味も悪くない。
「因みに山芋ですが」
「ああ」
「短冊の予定でしたが、すりおろして生卵の白身を混ぜると、何かに似ると思うので試してみてもいいですか」
「食欲が失せるしヤメロ」
「そうですか……」
ショボンとするな。
「あ、あさりがくぱぁしました!」
……。
タマちゃんの調理に付き合ってると、食欲は失せても性欲は増してしまいそうなんだよなぁ。
「どうぞ、お召し上がりください」
「おお、ありがとう。いただきます!」
「……私、駄目ですね」
「ん? 何がだ? 料理は美味いぞ?」
「みゃーだったらここで、それとも、ワ、タ、シとか言うのでしょうけど、どうも恥ずかしくて」
「タマの恥ずかしさ基準が俺には判らんのだが?」
前から思っていたが、コイツの羞恥心はどこかズレている。
「裸を見せるのは恥ずかしいです」
「誰でもだよ!」
「小さいのですか?」
「それで恥ずかしいんじゃないからな?」
いや、本当に平均サイズだし。
「私は、小さいみたいで」
それは知っている。
ノーブラの時の起伏のなだらかさは二度も見た。
「まあ普通じゃないか?」
そう答えるのがマナーだろう。
「見たんですか!?」
「いや、服の上からでもだいたい判るだろ」
「凄いですね孝介さん! 服の上から陰核の大きさが推測出来るなんて!」
「陰核かよ! 判るわけねーだろ!」
「だって今、陰核の話、してましたよね?」
あれ? あ、そうか、小さいのですか、ってのは男の陰核とも言える部分の話だったから……。
って、納得出来るか!
「乳輪かも知れません」
「知らんわ!」
……。
タマちゃんとの食事は、何て言うか、結構疲れる。
食事を終えると、タマちゃんがお茶を淹れてくれる。
茶葉と急須はタマちゃんが用意したものだ。
その猫の絵柄が入った急須は、普段、うちの食器棚に置かれている。
「そろそろ洗面に歯ブラシも置くべきですかね」
「一人でお泊まりはタブーだろ」
詳しくは聞かされてないが、みゃーとタマちゃんの間では、色々と取り決めがなされているらしい。
その中に、お泊まり厳禁、お風呂も厳禁、夜九時までに退室、という条項があるのだとか。
「食後すぐに歯を磨きたいのですよ」
「まあ、歯ブラシくらい別に構わんが」
「そう言ってくださると思って、歯ブラシを用意してきました」
食材だけかと思ったスーパーの袋から、じゃーん、と言いたげな顔で歯ブラシを取り出す。
お揃いがいいのか、ご丁寧に色違いの歯ブラシを二本、用意している。
「置いてきますね」
「ああ」
何だろう?
ちょっとした、細かな事柄の一つ一つが、微笑ましかったりする。
たんたんたん、と浮き立つような足取りで洗面に向かったタマちゃんの姿だとか、独り暮らしの空間に増えた生活用品だとか。
「赤がみゃーので、黄色が私のです。間違えないでくだ──いえ、黄色の方は、どんどん使って
俺はまた微笑む。
下ネタが可笑しかったからじゃなく、てっきり俺の物だと思った歯ブラシが、みゃーの物だったことが嬉しいからだ。
俺なんかのために競いあってるけど、やっぱり二人は仲が良い。
「それでは孝介さん、そろそろ門限ですので」
「ああ。気を付けてな」
見送りは玄関までだ。
「あなたのタマは帰ります。おやすみなさい」
家は近いのだから、送ってやればいいのだが、タマちゃんが家に入るまでを、ベランダから見届けるのが決まりになっている。
小さくシルエットになったタマちゃんが、最後に振り返るのを見て、俺は満ち足りた気分になる。
金曜の夜は、いい夢を見る。
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