第46話 呼び名
夜のうちに雨が降って、路地裏にも水溜まりが出来ていた。
地面が濡れているせいか、サバっち達の姿は見当たらず、代わりに性悪猫がいた。
「これはこれは孝介さん、昨夜はみゃーと叫びながら何度果てましたか?」
「叫んでねーし、果ててねーよ!」
性悪猫は、
俺が滝原をみゃーと呼ぶようになったことは、既に伝わっているらしい。
「因みに昨夜の私は、孝介さんと叫びながら何度も」
な、何度も?
「釘を打ちました」
「藁人形かよ!
「みゃーをみゃーと呼ぶのが私だけで無くなったのが、
「え? じゃあアイツは学校で何て呼ばれてるんだ?」
「普通に美矢が多いですね。後は美矢ちゃん。男子は滝原がほとんどです」
「へー、そう聞くと、なんか特別感が増すなぁ」
「ついでに言うと、私のことをタマちゃんと呼ぶのもみゃーだけです」
「え? 俺は?」
「あなたは数の内に入ってませんので」
……。
「まあ実際のところ、いつまで滝原って呼んでんだこのヘタレが、って思ってましたから、好きに呼べばいいんじゃないでしょうか」
「タマちゃんは、タマちゃんでいいのか?」
「何がですか?」
「いや、最初に俺がタマちゃんって呼んだ時も、ちょっと不満そうだったし、もっと呼ばれたい呼び方があるのなら」
「そうですね。では、私のことは肉便器とお呼び──痛っ!」
叩かなければ、コイツはどこまでエスカレートするのだろうか?
「……中学の時のクラスメイトに栗田さんという子がいまして」
「は?」
いきなり何の話だ。
「女子はみんな栗ちゃんと呼んでいたのですが」
「あ、ああ。それで?」
「無知は罪だな、と」
「いや、案外みんな結び付けて考えないんじゃないかな」
嘘である。
栗ちゃんと聞けば、それなりの数の男は小突起を連想する。
勿論、小中学生だと話は違うが。
タマちゃんという呼び名も、そっち方面を連想するヤツはいるが、こっちは逆に、子供の方が連想する割合が高いのではないだろうか。
「気休めですね。今頃あの子は、夜な夜な羞恥に身を
涙じゃなく何かって何!?
枕を挟んじゃうの!?
「まあ名前のことはともかく、聞いたところによると、みゃーはあなたの頬に、き、きき」
「き、きき?」
「き、ミスをしたそうですね」
「ミスはしねーよ」
「く、口づ、口癖を」
「頬に口癖って意味不明だろ」
「せ、せっ、脱糞したそうじゃ──」
「接吻だろうが! どんなハードプレイだよ! て言うかお前の親友は変態か!」
「いえ、みゃーが変態なのではなく、あなたが望めばみゃーは応えてくれるかと」
「望むかっ! せいぜい飲尿──いや、しかし、アイツはそんな話までお前にするんだな」
「……まあ、それほど嬉しかったんでしょう」
何故か不意に寂しげな顔になる。
親友が異性と親しくなることは喜ばしいことではあるけれど、少し寂しさを感じることであるのかも知れない。
「月が綺麗ですね」
「ん?」
タマちゃんの視線を追うと、路地の狭い空に、白っぽく、青空に消え入りそうな月が見えた。
「そもそも、孝介さんは私の名前を憶えているのですか?」
「多摩美月だろ?」
「!?」
「そんな驚くことでも無いだろ」
「き、綺麗な月です!」
「いや、美しい月だろ?」
「つ、月も好きですが、猫も好きです」
何故か誤魔化すようにそう言う。
「……あまり懐いてはくれませんが」
確かに、サバっち達がタマちゃんと接する姿は、割と淡白というか、甘える様子は無い。
「じゃあ、タマに美月で、好きなものが両方名前に入ってるわけだ」
「タマ、イコール猫ではありませんけどね」
「でも、タマちゃんって猫っぽいとこあるし、タ~マって呼んでみたくなることあるなぁ」
「ちょっと帰っていいですか」
「あ、ごめん、キモかった?」
「いえ、ちょっと膝まで垂れてきましたので」
何が!?
「それでは失礼します」
「あ、ああ」
「あ、それから孝介さん」
「ん?」
「先日はご迷惑をお掛けしました」
コンビニでのことか?
「いや、あれは客の方に問題があるし、タマちゃんはカッコ良かったよ」
「殴られた頬は、もう痛みませんか?」
「ああ、全然問題ない」
「原因、きっかけは私にあるのに、頬を癒したのはみゃーでしたね」
「はは、タマちゃんでも癒されるけどね」
「……私がしていれば、今ごろ頬は化膿して
「怖っ!」
「では、失礼します」
下ネタと毒舌に紛れさせているけれど、本当はお礼が言いたかったのだろうか。
気まぐれに来ては、言いたいことを言って、自分のタイミングで帰っていく。
ホントに猫みたいだ。
「……た~ま」
俺は何となく、その小さな後ろ姿に向かって、独り言のように呟いた。
聞こえる訳はないのに、何故かタマちゃんが足を止め振り返る。
薄暗い路地から明るい表通りに出ようとするところ、逆光で表情はよく見えないけれど、その影がどこか切なげに見えて、俺は戸惑いながら、ぎこちなく手を振った。
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