第31話 傘
仕事帰り、駅を出ると雨が降っていた。
夕立ちかと思ってしばらく待ってみるが、どうも止みそうにない。
「コンビニで傘を買って帰るか」
そう呟いたとき、俺の鼻先に傘の
「タマちゃん」
不機嫌そうな顔をした彼女は、早く受け取れと言わんばかりに、更に傘を突き出してくる。
「あ、ありがとう」
男物の黒い傘は、タマちゃんのお父さんのものだろうか。
「みゃーが迎えに行けとうるさいので」
「そっか、何か悪いな」
「まったくです」
雨の中、二人で歩き出す。
今朝、秘密基地で滝原に会っていたから、俺が傘を持っていなかったことに思い当たったのだろう。
「折り畳みを持ってる可能性もあったのにな」
「持っていない可能性もあったので」
至極当然な、けれど、どこか胸に沁みるような優しい言葉だ。
たとえ無駄足になっても、持っていない可能性があるなら傘を届けよう。
そんな思いも一緒に届けてくれる。
「天気予報は見なかったんですか?」
「ああ。朝は晴れていたし」
「気圧配置を見れば、夕方から夜にかけて雨が降るのは一目瞭然です」
何か女子高生らしくないことを言ってくるが、雨音を通して聞くタマちゃんの低く澄んだ声は、耳に心地よかった。
「旅行先は決まりましたか?」
「ん、俺の実家にしようかと」
「実家?」
「ああ。誰も住んでいないけど、ド田舎だし売れる訳も無くてそのまんまなんだ。近所の老夫婦がたまに手入れしてくれてるから、泊るのは問題無さそうだし、宿泊費もかからない」
「面白そうですね」
ちょっと意外な返事。
タマちゃんなら、ホテルのスイートルームに泊めろとでも言うかと思った。
「ただ問題は、誰も住んでなかったから、電気もガスも来てないことなんだよなぁ」
「あなたの生涯童貞宣言より大問題じゃないですか」
そんな宣言してねえよ。
「アウトドアグッズで凌ごうかと」
「テント泊みたいにですか?」
「そうそう。まあ、ちゃんとした御飯が食べたくなったら、近所の人に車を借りて町まで出てもいいし」
「水道とお風呂は?」
やや冷たい視線。
「……」
「水道とお風呂は?」
凍り付くほど冷ややかな視線。
「いや、隣んちの 風呂を貸してもらえる。水は、ペットボトルで……」
「まあキャンプと思えば、壁と屋根があるだけ恵まれてるのかも知れませんが」
「そうそう! 疑似キャンプだ。庭で焚き火も花火も出来るし、縁側に座って星を眺めたりとか」
「キャンプ用具はあなたにお任せするとして、私が持っていく物は拘束具でいいですか?」
「拘束具?」
「寝るとき、あなたを拘束する必要があるでしょう?」
「いや、普通に寝かせて!?」
「そうは言ってもか弱い女子二人、あなたが豹変したら抵抗しようがありません」
「そんなに信用無い?」
「……信用してなかったら、一緒に旅行なんて行きませんよ」
「そうか。良かった」
「念のためですが、田舎の古い家なら縄くらいありますよね?」
完全に信用されている訳では無かった……。
高校の前を通る。
「そう言えば終業式の日、みゃーは男子に告白されてましたよ」
「え!?」
「まあ言うまでもなく断ってましたが」
別に、驚くようなことでもないか。
あんなに愛嬌があるんだから、それなりにモテるだろう。
「タマちゃんは?」
「は?」
「タマちゃんもモテるだろ?」
「基本的に、男子は産廃扱いしてますので」
……それは俺も含まれてるのだろうか。
ただ、俺に対するような態度を同級生の男子にもしているなら、その年頃の男子としてはキツイかも知れない。
「あなたは、モテないでしょうね」
「否定はしない」
「この先、どうして俺はモテないんだ、と嘆くより、生涯童貞を貫くことを高らかに宣言した方が楽になれますよ?」
「いや、俺は苦難の道を行く!」
「そうですか」
あっさりとした返事。
傘に隠れた目許。
でも、傘から覗く口許は、微かに
タマちゃんの家の前で、傘を返そうとする。
ここから俺のマンションまでは、三十メートル程しかないから走ればいい。
「あなたのマンションの前まで行きましょう」
「いや、すぐそこだし」
「すぐそこなら尚更です」
俺の顔も見ずに歩き出す。
三十メートルはあっという間だ。
言葉も交わさず、雨音に耳を傾けているうちに着いてしまう。
俺は傘を畳み、タマちゃんに差し出す。
「ありがとう。助かった」
「いえ。今度の旅行でなけなしのボーナスを散財させることを思えばこれくらい」
俺は思わず苦笑する。
「何階ですか?」
「え? ああ、五階だけど」
「そうですか。では」
「あ、うん。また」
何となく、拍子抜けするような思いで、その後ろ姿を見送る。
男物の長い傘は、タマちゃんを少し小さく見せた。
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