第29話 通勤電車

今朝の通勤電車では、目の前に女子高生が立っていた。

夏休み中だから私服姿な訳で、ならば女子高生であるとは言い切れないはずだが、俺の胸元で顔を上げている女の子は,間違いなく女子高生であった。


「滝原、苦しくないか?」

滝原はドアに背を預け、俺と向かい合って立っている。

俺の背後からは無数の乗客の重みが押し寄せてくるが、俺はドアに手をつき、この小さい生き物を圧し潰そうとする力を、辛うじて阻止していた。

「寧ろごほーび」

いつもニコニコ滝原さんは、いつも以上の笑みを俺の顎の下で浮かべている。

というか、ちっこい。

小柄なのは判っていたけれど、密着するとその小ささに改めて驚く。

頭のてっぺんが俺の鎖骨辺りまでしか無い。

いや、あまり滝原を意識するのはやめよう。

「こーすけ君はさあ」

「ん?」

「いっつもこうやって、痴漢さんから女子を守ってるの?」

確かに今の俺は、滝原を守るためにバリケードの役割をしているわけだが……そもそも痴漢にさん付けするヤツ、初めて見た。

「んなワケねーだろ」

こういう位置関係になれば、まあ今のような状態になることもある。

場合によっては、痴漢されてるっぽい女性の傍まで行って、怪しい男との間に入ることもあるが、元々近い位置でないと混み合った車内では至難の技だ。

「友達の家に行くにしても、こんな時間を選ぶなよ」

急行で一駅先の街に住んでる友達のところへ遊びに行くらしいが、タマちゃんはラッシュは嫌だと言って、後から来るらしい。

「前もこの時間に行ったことがあって、失敗したなぁ、って思ったけど、こーすけ君いたし」

ニマっと人懐っこい笑み。

滝原の家の最寄り駅は普通しか停まらないから、友達の家へは俺の乗る駅で急行に乗り換えた方が早く着く。

だが、わざわざ改札の前で俺を待っていたのでは、一本遅らせてしまうので意味は無い。

まあ、俺と一緒に行きたいと思ってくれる気持ちは嬉しいが。


「こーすけ君」

喉元に届く声がくすぐったい。

「ん?」

「痴漢さんになる?」

「なるかっ!」

思わず大きな声を上げてしまい、周囲の注目を浴びる。

「お前は何を言い出すんだ」

声をひそめて言う。

「だって、私、ヤバいかも」

「な、何がだ」

「こーすけ君に包まれてる感が、女を目覚めさせる」

「タマちゃんみたいなセリフを吐くな」

膝で小突く。

「んっ」

ヤバい、膝の当たった先が柔らかい。

何でだ? いや、太ももだし柔らかいのか?

「こーすけくぅん」

潤んだ目をするなっての!

こっちはさっきから意識しないようにしていたのに、鼻腔を擽る髪の匂いとか、小柄でも、やっぱり女の子らしい柔らかさとか、甘い息とか、すぐ目の下にある胸元とか、とにかく女性の総合的魅力が怒涛の勢いで俺に迫ってくるのだ。


電車がカーブに差し掛かる。

背中にかかる重みが増し、ドアで支えていた腕も曲がる。

滝原は俺の胸に顔を埋める形になる。

ていうかアナタ、いま自ら顔面押し付けてきませんでしたか?

偶然なのか、踏ん張った俺の右脚は、滝原の脚の間に入る。

なんだ、この俺の右脚を包み込むような柔らかさは。

そして、その柔らかさとは違って、右脚の上部に当たるやや固い部分。

ち、恥骨?

「あ、脚、動かしちゃダメ。んっ」

切なげに訴えてから、言葉とは裏腹に、俺を求めるように見つめてくる。

あどけなくて、可愛らしくて、人懐っこい少女が、女の色香を放つ。

ヤバイ。

俺の理性は崩壊寸前だ。

今なら俺にも痴漢の気持ちが判る。

そうか、人って、こうやって経験を積んで判り合えるようになるんだ。

「間も無く──」

はっ!?

車内アナウンスで我に返る。

俺はいったい何を考えていたんだ。

痴漢野郎の気持ちなど判ってたまるか!

「滝原」

「こーすけくぅん」

ダメだ、コイツはまだ発情している。

赤い顔をして、息が荒い。

なんて扇情的なんだと目を奪われそうになるが、もう電車はホームに差し掛かった。

これで安心だ。

ちょっと惜しいような寂しいような気もするが、滝原とはここでお別れだ。


電車が止まり、扉が開く。

……反対側の。

そう言えばそうだった!

乗車客ばかりで下車する客は皆無に近く、俺は更に滝原へと押し付けられ……。

「このまま乗って、どこかで引き返すね」

嬉しそうな笑顔を浮かべる滝原と、少し不安を抱く俺を乗せたまま、電車は再び動き出す。

「通勤電車も楽しいかも」

無邪気で淫らなお姫様は、俺の苦悩など知らずにそう言って、また胸に顔を埋めるのだ。


その日の仕事の捗り具合は、自分でも少し驚くべきものだった。

何故なのかは、あまり考えたくない。






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