第22話 指令

朝からだるような暑さの中、路地裏にもセミの声が反響していた。

滝原は、雑居ビルの壁に張り付いているセミの抜け殻を、子供みたいな眼差しでじっと見つめている。

瞳は深い色を湛えて、あどけないのにどこか不思議な雰囲気。

「メカニカルでサイボーグちっくだね」

話す内容も、女子としては不思議だ。

セミの声も、街の喧噪も消え去って、この狭い空間以外の現実味が薄れる。

いや、逆だろうか。

この空間こそが、まるで非現実的な場所みたいだ。

「でも、虚ろで物悲しいね」

「え?」

「夏は始まったばかりなのに、夏の終わりを想起させるのは、抜け殻だからかな」

愛すべきバカであり、特進生でもある滝原は、感性豊かな女の子でもあった。

夏の終わりには、俺はいったいどうしているのだろう?


「それはそうと、こーすけ君」

心地よい、甘い声。

「何だ?」

「先週の金曜日、タマちゃんとデートしたって聞いたんだけど」

声色が変わった。

秘密基地の甘い空気が、都市の死角の殺伐としたカツアゲ場所のようになる。

「デート!? 誰から!?」

「タマちゃん。自慢のメッセージがいっぱい来た」

あのアマぁ!

「赤裸々にこーすけ君が内面を開陳したって」

「まあ待て、落ち着いて話そう」

「粗チンも開陳したって言ってた! どういうこと?」

「するか! あと粗チンちゃうわ!」

「だから粗チンって何よ!?」

ん? あ、粗チンの意味が判らないのか。

「粗チンって言うのはさ……って、言えるか!」

「……私には言えないんだ」

ひどく悲しみを湛えた目で俺を見つめ、唇を噛み締める。

なんと言う愛おしさ! 世界を敵に回しても構わないくらいだ。

先日、タマちゃんに滝原が好きだと伝えてから、改めて自覚したというか、好きという気持ちが止まらなくなっている。

ただ、粗チンが原因で世界を敵に回すわけにはいかない。

それくらいの分別は残っている。

ならば、この純真可憐な乙女に何と説明すべきなのか?

「そ、粗チンの粗は、粗末の粗だ」

ここまではいい。

問題はこの先にある。

「粗末な……チン? あ、 判った! こーすけ君、粗末なの?」

ああ、君はどうして、その愛らしくも幼さの残る顔でそんなことを問うのか。

しかもその目元に憐れみを浮かべて。

「いや、だからタマちゃんに見せるわけ無いだろ」

「じゃあタマちゃんが嘘を吐いたの?」

時に、純真はめんどくさい。

「嘘じゃなくて、お前をからかったんだよ」

「ホントかなぁ?」

「俺もタマちゃんも、お前のことが好きだから騙すことなんてしない」

「えへへー、私も二人が好きー」

チョロい。

チョロすぎて心配になるレベルだ。

そして、嘘を吐いている訳でもないのに生じる罪悪感。

お前は天使か。

そんなことを思って苦笑する。

「それはともかく、デートってどういうことか、説明してくれるかな?」

天使と悪魔は紙一重であるということを、俺は初めて知ったのだ。

天使は悪魔の形相で俺を問い詰める。

いや、可愛らしい悪魔ではあるのだけど。


「金曜の帰り、たまたま駅を出たところで会ったんだよ」

「たまたまタマちゃんと会ったんだ」

たまが三回続いただけで楽しそうなのが微笑ましい。

「公園に寄って話をしたけど、話題は全部、お前絡みだ」

「そのわりにはタマちゃん、私の知らないこーすけ君のこと知ってた」

「それも、お前に関することから話す羽目になったんだよ」

「主従契約、結んだって聞いたけど」

「結んどらんわ!」

「あ、タマちゃんから指令が来た」

滝原が珍しくスマホを取り出す。

二人でいるとき、滅多にスマホに触れないのは偉いと思う。

というか、指令って何だ? お前こそ主従関係にあるんじゃ……。

「こーすけ君こーすけ君」

「何だ?」

「そこ、座って」

言われた通りにする。

タマちゃんの指示に従う滝原の指示に従う俺。

もしかして序列最下位なのかも知れ──

何だ!?

視界を閉ざされた途端、温かいものに包まれ、一瞬、何が起こったのか判らなくなる。

柔らかくて、いい匂いがして、それで、滝原の胸に抱かれているのだと気付く。

それは甘美で、とろけそうな心地よさで俺を包んだ。

何故そんな状況になっているのか判らずに戸惑い、戸惑いながらも、その感触に溺れるように身を委ねてしまう。

俺がそれでも欲情しなかったのは、俺が理性的だったからじゃない。

「いい子いい子」

滝原がそう言って、俺の頭を撫でたんだ。

まるで、俺が母の胸の中で微睡む子供であるかのように、自身を錯覚する。

「えっと次は、速やかに彼を一人にするべし?」

そして俺は、タマちゃんの考えに気付いたんだ。

「こーすけ君、ちょっと早いけど、もう行くね。お仕事頑張って!」

……。

……くそっ!

俺に家族がいないからって、俺が一人が寂しいからって、余計なお節介しやがって!

更にご丁寧に、余韻に浸る時間まで用意しやがって……。

でも、腹を立てているのはタマちゃんにじゃない。

まんまとタマちゃんの思惑通りになっている自分に対してだ。

ずっと年下の女の子に甘えてしまったことに対してだ。

タマちゃんが俺を子供扱いした訳でもなく、同情や憐れみであんな指令を出した訳でもないことは判っている。

俺が、心のどこかで望み、焦がれていたことを、タマちゃんは叶えようとしただけなんだ。

情けねー。

俺は頭を撫でられた感触と、胸の温かさを思い、鼻をすすった。

「ちっくしょう」

一人、毒づく俺を、いつもより穏やかな顔をしたサバトラが見ていた。

ちっくしょ……。

それでも俺は、元気を貰えていたんだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る