第17話 トイレ

「どうしよう、こーすけ君」

朝一番、顔を合わすなり滝原は困った顔をしていた。

また無茶な要望でも言ってくるのかと身構えたが、どうも足元が落ち着かないようだ。

「トイレか?」

コクコク。

よほど切羽詰まっているのか、声も出さずに頷く。

チャトラが呑気に「みゃー」と鳴く。

「そこのコンビニ行ってこいよ」

「えー、今日、金曜日だよ?」

ちょっと意味が判らない。

「コンビニは年中無休の二十四時間営業だが?」

「明日は土曜日だよ?」

足踏みしながら当たり前のことを言う。

「そうだな。そして明後日は日曜だ」

「だから会ってる時間、減らしたくない」

……俺は目頭が熱くなった。

土日は会えないから、今、この瞬間を無駄にしたくないと言う。

二人の間を、トイレなんかに邪魔されたくない、と言う。

いや、そうは言ってないけど、まあそんなところなのだろう。

「かといって、尿意に邪魔されてたら意味が無いだろうが」

「そうだけど! じゃあ一緒にコンビニ行こ!」

何やら限界が近付いているらしく、無駄に語気が強い。

「いや、二人で行動しているところはあまり見られない方がいい」

「もうおしっこ出りゅ」

一瞬、頭の中にエロ漫画で見たような選択肢が浮かんでくる。

その一、飲む。

その二、その場でさせる。

その三、早くトイレに行かせる。

って、考えるまでもねーだろ!

「いいから一人で早く行け!」

「こーすけ君の意地悪!」

何かに目覚めそうなセリフを吐いて、滝原はぎこちなく駆けていく。


一人になると、秘密基地は少し寂しい。

俺は仕方なくチャトラと遊ぶ。

因みにタマちゃんは、サバトラ以外にも名前を付けたらしく、チャトラはハチャメチャトラップ、三毛はミケランジェロだという。

今は元々の呼び名である、トラとミケに訂正させた。

そのまんまだが、おかしな名前よりかは、呼ぶ方も呼ばれる方も幸せだろう。

俺も、今は滝原から「こーすけ君」などと呼ばれているが、タマちゃんにかかると「えんこーすけべ君」などと呼ばれかねない。

悪の芽は早いめに摘み取った方がいい。

「みゃー」

トラが鳴く。

ここに居る猫達は、何故か「にゃー」ではなく「みゃー」と鳴いているように聞こえる。

もしかして、みゃーがいなくなって寂しいのか?

「みゃー」

奇遇だな、俺もだ。

そんなことを思いながら、トラの顎を撫でる。

目を閉じて、気持ち良さそうにする。

「お前は太りすぎだ」

猫に語りかけながら、俺は滝原を待つ。

静かに、ゆっくりと時間が流れる。

こんな街の片隅で、心から寛げる朝のひとときが得られるだなんて、思いもしなかった。

「みゃー」

奇遇だな、お前もそうなのか。

俺はトラを撫で続けた。


「あー、ずるい!」

スッキリした顔の滝原が、走って戻ってくる。

何が狡いのか?

滝原は俺の隣にちょこんと座ると、自分の膝の上にトラを乗せて、顔を突き出してきた。

撫でろと?

「頭と顎と、どっちがいい?」

少し躊躇いながら訊ねる。

「あたまー」

明快な答えが返ってきたので、俺は滝原の頭を撫でる。

さらさらなのにしっとり、世の理を無視した触感に驚嘆する。

……。

よし、大丈夫だ。

女子の頭なんか撫でたことは無かったけど、今の俺の気持ちに邪なものなど無く、満たされる何かは保護欲に近いものだと推察される。

滝原も気持ちがいいのか、目を閉じ、口許は綻んでいる。

夢見心地とはこういうことを言うのだろうか。

だとしたら、抜け出すのは一苦労だな……。

でも……もうしばらくはこのまま……。


寝てた。

肩を寄せあって寝てた。

時刻は九時。

二人とも遅刻が確定しているが、慌てて路地から飛び出す。

元気に駆けていく滝原を見送って、俺も駅まで走ってみた。

大人になると走ることなどあまりなくて、流れる景色も、靴底に伝わる衝撃も久し振りだ。

駅まで走っても元気なのは、たぶん少し眠ったからだろう。

ただ、手のひらには、まだ滝原の髪の香りが残っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る