第8話 裁縫
五分早く家を出るためには、五分早く起きればいい、と言うほど単純にいかないのが朝の出勤準備で、その日の体調や目の覚め具合、気分によって準備時間も変わる。
アラームは普段より十分早くセットしていた。
けれど実際に起きたのは、いつもより三十分ほど早かった。
今までなら五分でも長くと寝直すところだが、今朝は何故かスッキリと目が覚めた。
遠足当日の小学生みたいで苦笑する。
朝は食べないことも多いが、時間に余裕があるので軽く口に入れておく。
髭も丁寧に剃ったし、歯も丁寧に磨いたけど、家を出たのはいつもより十分早かった。
さすがにまだ早いかと思いつつ、それでもどこか期待しながら昨日の路地を覗き込むと、滝原は既に猫と遊んでいた。
今日は三匹いた。
ラーメン屋のゴミバケツの上に座っている猫が、俺に気付いて「みゃー」と鳴く。
それを合図に、他の二匹と、愛らしい一人がこちらに目を向ける。
最初は地味だと思った滝原の顔が、見る度に可愛くなっていくのは、いったいどんなマジックなのかと思う。
「やったー」
おはようではなく、おかしな挨拶。
「何がだ?」
「十分も早いとか何のご褒美?」
俺と十分早く会えると、それがご褒美になるのだろうか。
「ちょうどメンドクサイこと頼もうと思ってたんだよね」
そういうことか!
コイツの頼み事は、いつも俺の社会的地位を剥奪し兼ねないものだ。
まあ、俺が社会的に地位があるのかと問われれば言葉に窮してしまうが、一般市民としての生活ですら脅かされてしまいそうな危うい頼み事をしてくるのは間違いない。
「ブラウスの第二ボタンが取れかけてて──」
「手芸部にでも頼め」
俺は間髪入れずに滝原の言葉を遮る。
「ウチの学校、手芸部なんて無いけど?」
「だとしても、俺に頼む事柄じゃ無いだろうが」
今回は、断固として断ってみせる。
「こーすけ君、裁縫セット、持ってるよね?」
「な、何故それを!?」
「以前、胸ポケットのペンを抜くとき、鋏使ったよね?」
「ぐっ!」
「そもそも鞄に鋏を忍ばせてるのが珍しいし、その鋏もやけに小さいものだったから、これは裁縫セットを携帯しているなと。更に裁縫セットを携帯しているような人なら、ボタンを付けるくらい余裕っしょ」
意外と鋭い観察眼を持っているようだ。
「確かに、ボタンくらいは付けられるが、だからって俺がやる理由にはならねー。手芸部が無くたって学校に出来るヤツの一人や二人いるだろ」
毎回毎回エロい要求を聞き入れてられるかってんだ。
「最近さぁ」
「何だ」
「学校で男子がエロい目で見てくるんだよね」
「そ、それが?」
「第二ボタン留められないと、ブラチラくらいは仕方ないよね……」
ぐぬぬ! また俺には実害が無いのに、何故か効力のある脅迫を!
「やだなぁ……」
くそ! 演技だとは思うが、憂える乙女じゃねーか!
「えーい! いいか、針が危ないから絶対動くなよ!」
「やったぁ!」
いいように扱われてるとは思う。
けど、頼られるのが嬉しいのも事実だ。
そして、やはり邪な気持ちは持ちたくない。
脱がす訳にもいかないから着たまま縫い付けることになるのだが、どうしたってブラは見えそうになる。
俺は針先に注意しつつ、目を逸らしつつを繰り返す。
ブラは見えなくとも鎖骨は見える。
肌理の細かい肌に描かれる、骨のラインと陰翳に目が奪われそうになる。
そんなところを綺麗だと思った自分に、少し驚く。
「こーすけ君、見過ぎぃ」
「あ、すま──っつ!」
ちょうど縫い終えたところで動揺して手元が狂った。
「ごめん! 私がからかったから! ホントごめん!」
ちょっとビックリするくらい謝ってくる。
左手の人差し指に、ぽつんと赤い点が滲み出す程度のことなのに。
「いや、今のは俺が悪い」
「あれしよ! ほら! 思いっきり突っ込んで!」
何故か口を開けるので、頭を叩いておく。
指を入れたら食われてしまいそうだ。
「くっそー、せっかくのお約束の場面なのに、ムードもへったくれもないよ」
ムードが無いのはお前だお前。
「とにかく終わったから、そろそろ行くぞ」
「うん、ありがと。裁縫できる男子はポイント高いよ」
ニコニコ満面の笑み。
「そりゃどうも」
「ではでは、行ってきまーす!」
いつものように、元気に駆けていく。
俺も、アイツに負けないように力強く歩き出すものの、正直、朝から疲れた……。
会社に着いて鏡を見ると、ひと仕事やり終えたような顔をしていた。
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