第7話 ノミ

月曜は、いつもより五分早く家を出た。

最近はネクタイなんて気にしたことも無かったが、いちばん高かったヤツを選んで締める。

何の気合だよと自分に突っ込みたくなるが、例えば、いつもより念入りに髭を剃った朝に、昨日よりいい顔してると言ってくれる人がいるなら、もうそれだけで理由として充分じゃないか?


ここ数日、顔を上げて歩いていたせいか、見覚えのある顔が増えてきた。

五分早いので擦れ違う位置がだいぶズレるし、会話や挨拶をするわけでもないけれど、憂鬱そうなヤツは大体いつも憂鬱そうで、楽しそうなヤツは大体いつも楽しそうだ。

他人から見て、俺はどんな顔をしているのだろう?

もし、少しでも幸せそうな顔が出来ているなら、憂鬱な人に、お裾分け出来ればいいのに。

いや、アイツにお返しすべきだろうか。


いつもの場所に滝原はおらず、五分早いから駅で会うのではと考えたが、ふとラーメン屋と雑居ビルの間の狭い路地を覗くと、野良猫と遊んでいる滝原がいた。

朝日の届かない路地裏で二匹の野良猫と戯れる滝原は、まるで辺りを照らすような笑顔を零していた。

何となく、声を掛けるのもはばかられて見入っていると、滝原が俺に気付いて頬を赤らめる。

照れる要素など無かったと思うが、滝原は「もう」と可愛らしく不満を漏らす。

狭くて薄暗く、雑居ビルの裏にはエアコンの室外機などが置かれた、道路から完全に死角になるスペースもあった。

何だか子供の頃の探検気分を思い出す。

俺が近付くと、悲しいことに二匹の野良猫は逃げていったが、滝原は歓迎の笑みを浮かべた。

「こーすけ君、お願いがあるんだけど」

「却下だ」

コイツのお願いは、大体が俺の社会的地位を落としかねないものだ。

「さっきの子がさ、ノミを持ってたみたいで、私のスカートの中に入っちゃったかも知れない」

「聞けよ! 人の話を!」

「私の話、聞いてる?」

何なんだろう、この、俺は悪くないのに俺が間違ってるみたいな空気。

「ひゃ! どうしよう、ノミが太腿を這ってるみたい!」

「……」

俺に出来ることは無いはず。

「ちょっと、こーすけ君、見てぇ」

くそ! そこまで言われたら、見ないわけにはいかんではないか!

……スカートの裾は股間に挟み込まれ、太腿はあらわなのにパンツは見えない。

くそ! 巧みに隠しやがって!

自分の中で前後の感情が矛盾しているようだが、太腿を目の前にして冷静でいられるか!

「いる?」

真っ白な肌には一点の曇りも無い。

ノミがいたなら、すぐに判りそうなほど、ホクロ一つ無い。

綺麗とエロの相関性はどれほどあるのだろうか。

素直に綺麗だと思う一方で、明らかに欲情と言っていい衝動みたいなものも生まれる。

「いないんじゃないか」

俺は目を逸らして言った。

太腿もそうだが、手を股間にやってスカートの裾を押さえ付ける姿も扇情的過ぎた。

「ちゃんと見てる?」

「ちゃんと見たって」

十六歳のガキを、エロい目で見たくは無い。

いや、コイツをそんな目で見るのは嫌だ。

確か先日もそんなことを思った気もするが、コイツが俺の中の聖人君子を、いつも叩きのめしてくる。

「大丈夫かなぁ」

俺の葛藤など気付きもしないで、スカートを戻し、手でパンパンとはたく。

「お前さぁ」

「ん?」

「簡単に脚とか男に見せるな」

「見せてないけど?」

きょとんとする。

コイツは自覚の無いバカなのか?

それとも貞操観念がゆるゆるなのか?

「いや、現にさっきまで──」

「こーすけ君ってバカなの?」

あれぇ? 俺の方?

「私、誰彼構わず見せたりしないって言ったよね?」

「いやだから、俺も含めて簡単に見せるなと」

「こーすけ君ってアホなの?」

「お前こそバカかよ。いくら歳が離れてたって、俺だって男なんだ。もっと注意しろよ」

「うわー、真正だ。ま、怒りたくなるけど嫌いじゃないかな」

「なに言ってんだよ、お前はもう少し年上の意見を尊重してだな」

「はいはい判りました!」

何だか不服そうながら、それでも聞き入れてくれたみたいだ。

「あ、そろそろ時間だね」

「ん、ああ、そうだな」

「明日も早起きしてね」

「え?」

「じゃあ、行ってきまーす」

いつものように駆け出す。

「あと、そのネクタイ似合ってるー」

振り返って元気一杯の声。

俺は自分のネクタイに目を落とし、口許を緩めた。

ほら、やっぱり充分な理由になった。


……早起きか。

五分早く家を出たら、五分長く一緒にいられるのだから、早起きするのも悪くないか。

そう考えると、また少し元気が増えた気がする。

アイツは人を元気にするのが上手いようだ。

ただ、下半身を元気にさせるのはやめてほしいけど……。


出社早々、「最近、顔色がいいな」と社長に言われた。



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