エピローグ 綺麗な黒髪の女の子
白い天井。
ベッドの上に横たわる少女――
もう何回見たのかも分からない、見知った天井だ。
重い体を起こして周囲を見渡してみる。
部屋の反対側にある窓からは朝日が差し込んでいて、少し開いた隙間から涼し気な風が部屋に入り込んできていた。
風を受け、ゆらゆらとそよぐのは白いレースのカーテン。
その横にあるのは本棚、机。結依が中学生の時から使っているものだ。
部屋の中央にはシンプルなデザインのローテーブルがあって、隅には茶色のドアがある。
わたしの部屋だ。結依は思った。
昨日、一昨日、そのずっと前から変わらないわたしの部屋。
いつも通りの空間。
何か変わっているところがあるとすれば、それはわたしだ。
結依は自分がいつの間にか涙を流していることに気付いた。
両目からぽたぽたと透明な雫が溢れ出していた。
零れ落ちた涙が結依の枕を濡らしていく。
「わたし、何で泣いてるんだろ」
それが悲しいから、なのか。
嬉しいから、なのか。
結依には分からなかった。
ただただ、涙が止まらない。堪えようとしても堪えられない。結依の中で、何かが泣いていた。
でも、多分悲しいからなんだと思う。
意中の人に告白される夢を見て、結ばれて、でもそれが夢だと気付いた時のような。
その時の感じに近い気がした。まあ、わたしに意中の人というものはいないし、そんな夢も見たことはないのだけれど。
ただ、嬉しいこととか、幸せなこととか、そういったものが失われてしまった。そういうことなんだと思う。
わたしは一体どんな夢を見て、何を失ったんだろうか。
その時、結依のスマホから通知音が鳴った。
涙を拭い、枕元に置いてあるスマホを確認する。
メールが届いていた。差出人は「国民選別試験 実施委員会」。今一番見たくない名前だ。
二十七回目の国民選別試験が終わった今、参加者全員に試験結果を知らせるメールが送られているのだろう。つまりはこのメールに結依の今後の命運が書かれている。
ロックを解除して恐る恐る内容を確認してみる。
『国民番号4C69 6265 7261 7465 小日向結依殿。貴殿は第二十七次国民選別試験に合格されましたので、ここにそれを証明します。各テストにおける得点の開示を希望される場合は、委員会までお問い合わせください。末筆ではありますが、貴殿のますますのご活躍を委員会一同お祈り申し上げます』
結依は、選ばれた。それを通知するメールだ。
ほっと安堵する気持ちとともにいまいち釈然としない気持ちが結依の中に湧いた。
わたしが、わたしなんかが、選ばれた。
愚図で力が弱くて、少し傷の手当てができるくらいのこのわたしが。
どうしてだろう。
国民選別試験には二つのテスト――遺伝子テストと環境テスト――があるけれど、合格するにはその両方で基準以上の点を取らないといけない。遺伝子テストの方はまだしも、後者の環境テストでわたしが良い得点を取れるとは思えなかった。しかし環境テストに関する記憶は残らないから、どうしてわたしが選ばれたのかを知る術はない。
まあでも、こうやって委員会が合格したと言っているのだから素直に喜んでおくべきなのかもしれない。そうは言ってもつい色々考え込んでしまうけど。それがわたしの良くない癖だという自覚はある。
玄関の扉を開けて、結依は外に飛び出した。すぐに秋の穏やかな日差しとちょっぴりだけ冷たい風が結依を出迎える。少し寒いかなと思ってカーディガンを羽織ってきたのは正解だったらしい。いつも着ている黒のやつ。少し袖が長くて萌え袖みたいになっているけれど、それはそれで気に入っていた。
門扉を開けて家の前の路地に出た。そしてすぐに走り出す。早く見たい景色があったからだ。
走ったおかげであっという間に目的地に着く。路地の端、道路が直角に曲がった場所。そこからはこの街全体を見下ろすことができた。
結依は白いガードレールに手を付き、その景色を眺める。
午前中の柔らかな日差しに照らされる一つ一つの小さな住宅。あのそれぞれに人が住んでいて、家庭があって、人生があるのだと考えると、この街だけでもこんなにたくさんの人生がある。そうであるなら、この世界全体には想像できないほどいっぱいの人生があるってことだ。
ここに来ると、そんなある種の壮大さを感じ取ることができる。それが好きだった。
そして今日は、それに得も言われぬ喜びと安堵の感情が加わった。不思議なほどに、それは結依の心の奥底から湧き上がってきた。
どうしてだろう。
環境テストの注意事項には「テスト終了後、軽い意識や記憶の混濁が起こる場合があります」って書いてあったけど、それだろうか。
人々の集合的無意識をコンピューター上で仮想的に再現して行われる環境テスト。開発にはあの天才技術者、星宮理沙が携わったって話だけど……。まだ不具合が残っているのかもしれない。
そんなことを反芻しながら、結依はしばらく街の景色を眺めていた。
曲がり角を曲がって、緩やかな下り坂を下りていく。
時折風が吹いて結依の真白な髪が揺れる。日が照っているおかげで風の割には寒くない。散歩するには丁度よい日和だ。
そう言えば、さっきまたスマホに通知が来ていた。今度はニュースアプリから。何でも号外の記事が出たらしい。内容は「国民選別試験に激震! 実施委員会の中枢サーバー、破壊される!」といったもの。元技術者で構成されるテロリストグループ、「リベレーターズ」が実施委員会本部のサーバールームに侵入。大量の爆薬で部屋ごと吹き飛ばしてしまったらしい。
SNSでは皆が大騒ぎしていたけど、わたしはそこまで心は動かされなかった。多分、当事者意識に欠けている。もうわたしにとっての選別試験は終わったわけだし。
まあでも、これによって今の息苦しい社会が少しでも変わってくれるならば、それは素晴らしいことだとは思う。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたら、目の前、道路の中央に小さな動物が座っているのに気付いた。
猫だ。キジトラ……だろうか。随分と小さい。子猫なのかもしれない。
その猫は結依の方を向くと、にゃーにゃー鳴き始めた。え、かわいい。
結依は子猫のあまりの可愛らしさに動揺を隠せなかった。
前と後ろを見て、誰も人がいないのを確認すると、結依は子猫に近寄った。近付いても一切逃げる気配はない。いい子だ。
「こんにちは」
「にゃー」
返事をしてくれた。あまりにもかわいい。偶然タイミングよく鳴いてくれた可能性もあるけれど、この子はわたしに反応してくれた。そう信じたかった。
その子の目を見つめていると、突然、その子は脇の階段に向かって走り始めた。
「えっ、待って!」
自然と足がそちらの方に向く。なぜだかあの子を見失ってはいけない気がしたからだ。
家と家の間の狭い階段を子猫とともに駆け登っていく。
子猫とは言え、その足は速い。置いていかれないようにするだけで精一杯だった。
いくつかの階段と路地を進んで、子猫が歩みを止めたそこには、小さな公園があった。
芝生や木々で溢れたその公園にはいくつかベンチがあり、その一つに人が寝転がっているのが見える。
子猫はその人の方に向かって走り始めた。まるでわたしをあの人に会わせようとしているみたいだ。
子猫の後に続いて、その人の前に立つ。パーカーを着た女の子だ。長い綺麗な黒髪が目に入った。
遠くからだとよく分からなかったけど、この女の子、かなり美人。
まず、顔立ちが整いすぎている。ここまで整った顔は初めて見たかもしれない。
肌も綺麗だ、お人形さんみたいな肌とはこういうことを言うんだろう。
……あれ。全く同じ感想を前にも抱いたような。いや、でもこの女の子とは初対面のはず。
気のせいかな。まだテストの副作用が残っているのかも。この分だと今日一日は不思議な感覚に囚われてしまいそう。
「にゃっ」
足元を見てみると、結依の靴紐でさっきの子猫が遊んでいた。いつの間にか解けてしまっていたらしい。
「おっと。こらこら、ダメだよ」
子猫の爪が食い込んだ紐を引っ張る。爪が引っかかったけれど、すぐに取れた。
子猫はやや興奮した様子で結依の持つ靴紐を見ている。
それを見て、結依はこの子と遊んでみたくなった。
紐を子猫の前に出す。
それを見た子猫は前足で紐に触ろうとする。
子猫が触る前に紐を引っ込める。
そして再び紐を出す。
そんな遊び。
子猫が紐に触れるギリギリで引っ込めるのがポイントだ。
久しぶりにやってみると案外楽しい。失敗して子猫の爪に捉えられてしまうと、紐が傷ついてしまうけれど、今の楽しさに比べたらそれは些細なことだった。
「楽しそうだねー」
目の前のベンチの方から声がした。子猫から目線を外してベンチの方を見ると、女の子が起き上がっていた。ニコニコとしながら結依と子猫の様子を見ている。
「えっと、もしかして、この子はあなたの猫?」
「そうだよー。名前はとらまる。かわいいでしょ」
「うん、とってもかわいい…………、あっ、ごめんね。勝手に遊んじゃってて」
冷静に考えたら人の猫と一緒になって勝手に遊んでいた。失礼なことだ。
「? 大丈夫だよ別に。もっと遊んであげて。あ、そうだ。これ、あげてみてよ」
そう言って女の子はパーカーのポケットから何かを取り出した。見てみると、表面に「猫用 鶏ササミ」と書かれている。この子のおやつだろうか。
一切れ差し出されたので、受け取って与えてみる。
そうすると子猫は物凄い勢いでがっつき始めた。
「おぉ……すごい。よっぽどお腹が空いてたのかな」
結依の口から素直な感想が漏れる。
「いつもこのおやつあげるとこんな感じなんだよね。すごいでしょ?」
「うん、これはすごい。ふふっ、かわいい」
この雰囲気、いいな。結依は心からそう感じた。
このほのぼのとした感じ。でもそれ以上にこの女の子の存在がそう感じさせている気がした。
どうしてだろう。この女の子とは初対面のはずなのに。
どうしてここまで、この女の子に惹かれるんだろう。
しばらくそんな感じで二人と一匹で過ごし、日が天頂に登った頃、二人は立ち上がって向かい合った。明るく、温かな日差しが二人を照らしていた。
そして何かに気付いたような顔をして、女の子が口を開く。
「あ、そう言えば。名前聞いてなかったね」
「名前? わたしは結依。小日向結依だよ」
「結依、か。素敵な名前だね。あたしは
その名前を聞いた瞬間、結依の中で何かが甦った。
今朝からずっと感じていた違和感。その本当の正体はこれなのかもしれない。
そしてその甦った何かは、次に結依が何と言えばいいかを教えてくれた。
「えっと、結莉奈。お礼をさせてくれない?」
「お礼? 何の?」
「猫と遊ばせてもらったお礼、みたいな」
「んー? 別にいいのに。まあでもしてくれるなら素直に嬉しいかな。そうだねぇ……」
ひとしきり女の子は逡巡した後、結依の顔をじっと見て、何かに気付いたような表情をした。そして、その言葉を口にする。その顔に屈託のない笑みを浮かべながら。
「あたしと一緒に、この世界で生きてみない?」
〈了〉
黒白の少女と終わる世界 アクレ @blue_exedra
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