キミがいない。
揣 仁希(低浮上)
キミがいない。
洗面台の鏡の前に並んだコップに入れたままになっている赤いハブラシ。
俺は顔を洗って、ハブラシを片手になんとなく広く感じる部屋へと戻る。
別に何か荷物が減ったわけでもなく、所謂断捨離やらなんやらをしたわけでもない。
ただ……
そう……彼女がいないだけ。
窓辺に置かれた巨大な観葉植物は彼女が買ってきたもので、英語の長ったらしい名前を言っていたのを覚えている。
元々、部屋に付けてあったベージュのカーテンをカラフルな色彩のカーテンに変えたのも彼女だった。
「男子高校生の部屋のカーテンがベージュっておかしいでしょ」
というのが理由だった。
俺としては、どうでも良かったけど一緒に買い物に出掛けた彼女がそう言って笑う顔があまりに楽しそうで……
観葉植物だってそうだ。
偶々入ったホームセンターで一目見て気に入ったそうだ。
彼女の軽四に積んで帰ってきたときにはびっくりしたものだ。
何でまたこんなものを、と聞く俺に「だって可愛いくない?」とこれまた飛び切りの笑顔で返事をされたら何も言えないじゃないか。
思い立ったら即行動。
欲しいものは欲しい、いらないものはいらない。
何とも分かりやすい性格をしていた彼女。
初めて会ったときから、ずっと俺の憧れであり……色んなものに流されて自分ってものを持たずにただ何となく生きてきた俺には眩しすぎた彼女。
部屋に来たときよりもふた回り程大きくなった観葉植物の葉を押しのけてこじんまりとしたベランダに出て、俺は晴れ渡った空を見上げる。
今頃、彼女はまだ飛行機の中だろう。
機内食や物珍しいものを見つけては楽しげに笑っているに違いない。
鬱陶しいくらいの雲ひとつない晴れやかな空が何故だかひどく腹立たしくて……
狭いベランダには不似合いなデッキチェアに腰掛け、俺は彼女のことをやっぱり好きなんだと思い、今更ながらに泣きそうになった。
◇◇◇
小さい頃から俺は何をやっても大体は器用にこなすガキだった。勉強然り運動然り、当たり障りなく無難に何をやっても中の中くらい。
別段秀でてることもなければ、これといって苦手なものもない。
見た目、ルックスもいたって普通。
クラスの中でも、人気があるわけでもなければ空気なわけでもなくそれなりに友人もいるし女子ともある程度仲良くしていた。
つまるところその他大勢、モブってやつだ。
高校も近場のそこそこの学校を受験してあっさりと合格し後は中学を卒業するだけとなった2月も末のある日、俺は彼女に出会った。
忘れようにも決して忘れることはないだろうその日。
進学も決まっていて別に行く必要もなかった、ただ惰性で続けていた塾の帰り道。
急な雨で近くのコンビニで雨宿りをしていた。
30分もすれば雨も上がっていてさっさと帰ろうとした時、賑やかな声と歓声が聞こえてきて俺はなんとなしに声のする方へと足を向けてみた。
コンビニの裏はバスケのコートがありそれに隣接してちょっとした空き地があることは知っていた。
夜10時を過ぎているにもかかわらずそこは祭でもしているかのような賑わいで、さっきの歓声はどうやらバスケのコートみたいだった。
中学生の割には背の高い俺は歓声を送っている人達の後ろから背伸びをしてコートを覗きこんでみたる。
ハーフコートで行われていたのは所謂 3on3できっと何かしらの派手なシュートでも決めたのだろう。
高校生くらいの男子達が、楽しそうにコートを走り回っていた。
きっと楽しいのだろう、俺にはわからないけど。
自分とは違う生き物に思えてその場から離れようとした俺の視界に隣の空き地で踊る女の子が飛び込んできた。
ほんの偶然。
ただ単に雨宿りをしただけ。
偶々耳に入った。
歓声に誘われて見に来ただけ。
そう、本当に人と人の間から一瞬だけ見えただけ。
それでも何故か俺は、帰ることをやめて空き地へと足を運んだ。
それが俺と彼女との初めての出会い。
偶然の出会いは俺の中で必然に変わり、その一瞬は俺の心を捉えて離す事は無くなった。
雨が降った後の、少し蒸し暑い空気の中で彼女は踊っていた。
バスケのコートほどではないにしろそれなりのギャラリーが手拍子をし、その輪の中で踊る彼女。
雨の中踊っていたのか、それとも汗なのか照明に照らされキラキラと輝く彼女の肢体は……一瞬にして俺の心を奪い去った。
リズムに合わせて踊る彼女は、そういったダンスに疎い俺から見ても圧倒的で有名な歌手のMVに出ているような存在感を放っていた。
横のバスケのコートの歓声がひどく遠くに聞こえ、周りの声もなんだか違う世界のように感じる。
空き地では彼女のほかにも多くの人が踊っていたり歌っていたりしてはいたが、その時の俺の目には入ってこなかった。
どれくらい俺はそこで……彼女を見つめていたのだろうか、もしかすればほんの数分、若しくは一瞬の出来事だったのかもしれない。
踊り終えた彼女は周りにいた友人と思われる人達と一緒に笑いあいながら……俺の視界から消えていった。
一目惚れ。
自分とは全く違う世界に住んでいる彼女。
きっと素敵な彼氏がいたりして……あの笑顔を独占しているんだろう。
俺は彼女を見れた嬉しさとザラザラとした嫉妬を抱えて家へと帰った。
それは、今までこれといった主張もなくただ何となく生きてきた俺を変えるには十分すぎて、あまりあるくらいの瞬間だった。
そして次の日から俺は毎日のようにコンビニ裏へと通うようになった。
初めは、ホントに遠くから眺めるだけ。
1週間が経ち、1カ月が過ぎた頃にはいくらかの顔見知りも出来た。ただ彼女とは一言も話せていなかった。
2カ月が過ぎ高校生になった時には、俺はバスケのコートを走っていた。
元々器用貧乏とでもいうか、それなりなんでもこなせた俺は顔見知りになった人の紹介でコートに立つことになり次第に毎日のようにバスケをするようになっていた。
それでも、直ぐそばにあるはずの空き地が遠くに感じた。
彼女が来るのは月に2回程度、知り合いによると看護師をしながらこうしてダンサーを目指しいるらしい。
夏が来る頃には、俺は3on3のコートではちょっとした有名人になっていた。一緒にチームを組んだ連中と毎日のよう遊び歩き、一種ファンのような女の子達にちやほやされていい気になって。
それでも、俺にはどうしても勇気がなく彼女に声をかけることすら出来なかった。
夏休み、知り合った人の伝手でバイトを始めた。
親は反対したが、俺は一人暮らしをしたいから自分で貯めると言って説得した。
何かに流されて生きるのはもうやめよう。
あの日、俺の中で何かが変わったんだと思う。
何がどうとかはわからないけど、少なくともちょっとくらいは胸を張って歩けるようにはなったような気がする。
夏が終わり秋が過ぎ、冬が訪れ2年になった頃俺はようやく一人暮らしを始めた。
何もかもが新鮮で、何をするにも自分の責任で……親の有り難みなんてものを実感出来たりもした。
そんな高校2年の春。
「ねぇ?この後時間ある?」
試合を終えてツレと話していると、不意に声をかけられた。
彼女に。
初めてはっきりと聞くちょっと掠れたハスキーボイス。
初めて見た頃と変わらない綺麗な栗色のショートカット。
大きな瞳をくりくりさせてそう俺に話しかける彼女がそこにいた。
「え、あ、ああ。だ、大丈夫だけど?」
内心の動揺を悟られないようになんて余裕は全くなく、しどろもどろに返事をしたのを今でもはっきりと覚えている。
「そ?じゃあ、そっちが終わったら声掛けてね」
それだけ言って手をヒラヒラとさせて空き地へと戻っていく彼女の後ろ姿に見惚れて、ツレ達から散々冷やかしとどうでもいい励ましを受け。
次の試合の後、俺は遠くに感じていた空き地へと足を運んだ。
「美味しいね」
「は、はい、そうですね。美味しいです」
そう言ってお寿司を食べる彼女。
今、俺は彼女と一緒にお寿司を食べに来ている。それも回らないヤツを。
彼女はよく来ているみたいでカウンターの向こうの職人さんと楽しそうに話している。
「敬語、使わなくていいよ?」
「は、はい、わ、わかり……わかった……です」
「ふふっ、もっとヤンチャな感じの子だと思ってたよ」
「え?」
「いつも見ててくれたでしょ?」
「………っ」
流石に2年近く見てれば気がつくよな。
イタズラっぽく笑う彼女は、私も見てたんだからねと意外なことを口にした。
「いつになったら声、かけてくれるのかなって思ってたんだけど。我慢出来なくなっちゃった」
「……ホントに?ですか?」
「うん、あれ?キミは気づいてなかったの?」
「あ、その……すみません。気がつかなかったです」
「ほらぁ、敬語はいらないからっ」
「う、うん」
カウンターに出されるお寿司を食べながらしっかりと僕を見て話す彼女。
きっと自分ってものをちゃんと持っているんだろう、目をそらすことをしない彼女に俺はつい目をそらしてしまう。
「恥ずかしい?」
「そんなんじゃないですけど」
「敬語!」
「ごめん……」
「もうっ!謝ってばかりだぞ、キミは」
「そう言われても……」
この2年間でちょっとは自信がついた気でいたけど、いざこうして好きな人の前だと思うように話せない。
「仕方ないなぁ、大将!おあいそ」
彼女は会計を済ませると俺の手をしっかりと握って繁華街を歩き出した。
「明日はお休みだよね?」
「うん、日曜だから」
「よしっ!えっとキミは実家暮らしかな?」
「一人暮らしですけど……」
「え?一人暮らしなの?」
「うん、何とかかんとかやってます」
「へぇ〜、じゃあキミの部屋に行ってもいいかな?あ!もしかして彼女いる?」
「い、いないですよ!だって……」
ん?と下から上目遣いで見上げる彼女の……可愛いこと。
それならいいよねと結局、彼女を連れて部屋に帰ってくることになってしまった。
「へぇ〜綺麗にしてるんだね」
「何にもないけどね」
家に帰ってくる間、彼女と色々な話をした。彼女のこと自分のこと。
おかげでだいぶ普通に話せるようにはなっと思う。
彼女が気を遣ってくれたのは俺にももちろんわかったから。
「最初に言っとくね」
「何を?」
ベッドに腰掛けて俺を手招きしながら彼女は言う。
「私はキミが好き、キミは?」
「え?……あの、俺も好きです、ずっと……ずっと前から」
「うん、そっか。うん」
近づいた俺の首に手をかけて微笑む彼女。
「じゃあ……いいよね?」
「んっ……んぐっ……ん」
「うふふ……ふっ…んんんっ……」
不意に口を唇でふさがれて、舌が差し込まれる。
目の前には憧れていた彼女の顔……そしてその唇は俺の唇にかぶさっていて。
初めてのキス。それも憧れの彼女とのキス。
「んふっ……もう止められないからね」
あっけなくベッドに押し倒される。
「これでも、結構我慢してたんだから」
細くてしなやかな指が俺の身体をなぞっていく。
背筋がゾクゾクして……
「電気……消した方が?」
「だ〜め、消したらキミが見えないじゃない?」
耳元で囁く声は掠れてはいるけど甘くて優しい。
「ねえ?いつから?」
「え?何が?」
「いつから好きだった?私のこと」
そう言いながら俺の髪を優しく撫でて……
「ずっと、ずっと前からですよ……憧れでしたから」
「憧れ?」
「ええ、憧れです」
もちろん初めて彼女を見た日のことは忘れてはいない、けどちょっと少し恥ずかしくてあの日のことは言えなかった。
「ふふっ、そっか。憧れか……」
優しく、それでいて艶めかしく笑う彼女。
「減滅した?」
「いえ、全然」
ベッドの上、俺に抱きつく彼女の細い体を……俺はようやく抱きしめ返す。
ふわっと鼻腔をくすぐる甘い香りと彼女の匂い。
「私はちゃんと覚えてるよ。ずっとずっと前……」
彼女も詳しくは話さなかったが、何となく俺と同じくあの日だったんじゃないかと思った。
「余計な話はもういいよね?」
そう言って彼女は……
◇◇◇
付き合いだしてからの1年はあっという間だった。
ホントに嵐のように過ぎ去っていったという表現がぴったりだろう。
付き合いだしたのも当然なら、彼女が俺の部屋に転がり込んできたのも当然だった。
「今日からここで一緒に住むからねっ!よろしく」
取り立てて荷物があるわけでもなく中くらいのカバンひとつだけ持って俺の部屋に来た彼女。
ちょっとばかりの服と化粧品、よくわからない置物と雑貨が少々。
荷物ってこれだけ?と尋ねたら「後は捨てちゃった」と返ってきてあきれるやらなんやらで。
彼女は色んな意味でとにかく自由だった。
ある日急に連絡がつかなくなったかと思えば1週間程して、けろっとした顔で帰ってくる。
「だって沖縄に行きたくなったから」なんて理由は彼女にとって普通だったんだろう。
何をするにも自由で……人の気も知らないで。
一緒に住んでいれば当然ながらセックスだってする。
彼女曰く、セックスは一種のスポーツらしい。快楽を求めるだけなら「ひとりでヤレばいいじゃない」と笑っていた。
「ふたりでスルから気持ちいいし楽しいんだよ?」だそうだ。重ねた身体の分だけ俺は彼女をもっと好きになる。我ながら単純なものだと言ってみれば「身体の相性がいいからね」と隣で笑っていた。
ふらっと出て行っては何日も音沙汰がない彼女。
決して他にも男がいるとかじゃなくて、ただしたいことをしてるだけ。
そんな振り回されっぱなしの1年間は、それでも俺にとってはかけがえのないものだった。
でも俺は多分初めからわかっていたんだと思う。
彼女がきっとその内……そう遠くない未来に俺の隣からいなくなることを。
何をするにも自由で自分の意思を大切にしていて……まるで大空を飛ぶ渡り鳥みたいで。
俺は彼女の宿り木になれるんだろうか?と。
そんな自由な彼女が俺はホントに好きだった。
「明日からアメリカに行くからもう帰ってこないかも」
だから唐突に切り出された別れも思っていた程、動揺はしなかった。
「向こうでも頑張れよ」
「うん」
「見送りいるか?」
「ううん、いらない」
「そっか」
「うん」
「…………」
「ねえ?私のこと、スキ?」
「ああ、もちろん大好きだ」
「そっか……うん、ありがとね」
頷いて俺を見つめた彼女は、やっぱり俺のよく知る彼女だった。
泣いたりしない、だから俺も泣かないしいつもと同じ。
「あっ、そうだ!もし、もしだよ?私が帰って来てキミがフリーだったらまたよろしくね」
「帰ってくんのかよ?」
「さあ?わかんない」
「約束は出来ない……な」
「約束なんかいらないよ、私が決めただけだから」
「じゃあ言うなよ」
「一応だよ、一応」
彼女は最後まで彼女だった。
いや、彼女だからこそ最後までそうだったんだろう。
…………
ベランダから部屋に戻って何となく広く感じる部屋を改めて見渡す。
彼女がそのまま置いていった何だかよくわからない置物、妙な雑貨が目に留まり苦笑する。
「さて……こいつらどうしたものかな」
これもひとつの失恋というのだろうか?
「帰ってくんのかね……あいつ」
居心地の悪そうな観葉植物を眺めて俺はひとり呟き、ハブラシをゴミ箱にひょいっと投げ入れる。
カランカランと空のゴミ箱が悲しげな音を立てる。
彼女は絶対に立ち止まったりはしないだろう、だから俺も立ち止まらない。
いつかもし、本当にもう一度出会うのなら。
「新しいハブラシでも買ってやるか」
ー了ー
キミがいない。 揣 仁希(低浮上) @hakariniki
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