バックミラー

紫 李鳥

バックミラー

 



 それは、激しい雨の降る夜だった。


 秘湯まで客を運んだ、タクシーの運転手、野上は会社に戻っていた。


 ワイパーがメトロノームのように動く度、叩きつける雨が水しぶきを上げて、視界を遮っていた。


 カーブを曲がったその瞬間、人が立っているのがヘッドライトに浮かび上がった。


「アッ!」


 野上は声を上げると、急いでブレーキを踏んだ。


 そこには、長い髪を垂らした白っぽい服を着た女が傘も差さずに佇んでいた。


(……こんな山道に、女が一人でどうしたんだ)


 野上はそう思いながらも、道の真ん中に立ち往生されては、声をかけないわけにもいかなかった。


 窓のハンドルを回すと、


「乗るんですか?」


 と尋ねた。


 すると、横顔を向けていた女が頷いた。


 後部座席のドアを開けると、俯いたままの女がゆっくりと滑るようにヘッドライトに向かって来た。


 ヘッドライトに照らされたその顔色はまるで、蝋燭のように真っ白だった。


(……気色悪い)


 野上はそう思ったが、こんな所に置いて行くわけにもいかず、仕方なく車に乗せた。


「……どちらまで?」


 バックミラーに映った女に尋ねた。


「……あ・の・○」


 女の声は低く、籠って聞こえた。


「え? “あのお”ですか?」


 明確に聞こえなかった野上は、近くにある地名を言った。


 すると、女はゆっくりと頷いた。


 早く降ろしたかった野上は、急いでアクセルを踏んだ。


「……こんな山道をどうしたんですか?」


 尋ねたが、女は俯いたまま返事をしなかった。


(……二人きりだと言うのに、会話もないなんて堪ったものじゃない)


 そう思い、ラジオのスイッチを捻った。


 そこから聴こえるDJの声に、野上はホッとした。





 ぽつぽつと民家が見え、“あのお”に近づいた時だった。


「そろそろ、着きますが」


 そう言って、バックミラーを視た瞬間、


「エッ!」


 野上は反射的にブレーキを踏んだ。


 バックミラーに女が映っていなかったのだ。


 咄嗟に振り返ると、女の姿はなく、座席だけがびっしょり濡れていた。


 車の外に目をやると、ゆっくりと歩く、女の後ろ姿が見えた。


(……いつの間に降りたんだ?)


「ちょっと、お客さん、料金!」


 だが、女は振り返りもせず、小道を入った。


 野上は傘を手に車から降りると、女を追った。





 女は、近くにある墓地に向かっていた。


 闇と降雨の中に、女の白っぽい服だけが淡く浮き上がっていた。





 墓地に着いた途端、一基の墓石に吸い込まれるように、その白っぽい物が一瞬にして消えた。


「ハッ」


 野上は息を呑むと、


「うう、えーーーっ!」


 意味不明な言葉を発し、傘を放り投げると走り去った。

 




 会社に戻った野上が、その事を同僚に話した。すると、


「――ああ、その話は有名だよ。あんたは新人だから知らないだろうけど。あれは、何年前になるか……五月×日。土砂降りの雨だった。親の危篤を電報で知った若い女が実家に向かう途中、猛スピードのタクシーに轢かれて死んだ。


 その女の霊は、五月×日の雨の日に必ず現れるそうだ。だから、その日は絶対、あの道は通らない……」





 それから間もなくして、秘湯まで客を運んだ野上は、その道を戻っていた。


 例のカーブを曲がった途端、帽子を被った長い髪の女がヘッドライトに浮かび上がった。


 野上は、アッ! と声を上げると、急いでブレーキを踏んだ。


(……今日は五月△日。……雨でもない)


 安心した野上が、


「……乗るんですか?」


 と聞くと、女はゆっくりと頷いた。


 ドアを開けると、女は滑るようにヘッドライトに向かって来た。


 顔を確認しようとしたが、帽子の鍔で見えなかった。


 女を乗せると、


「どちらまで?」


 と尋ねた。


「……あ・の・○」


 その声は、あの時の女と同じだった。


 ギクッとした野上がバックミラーを覗くと、そこには、目ん玉をひんむいた女の顔があった。


「ギャーッ!」


 悲鳴と共に振り向くと、――女がいなかった。


「うぇーーー!」






 ただ、






 後部座席がびっしょりと濡れていた。

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