第9話
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野球部の練習は厳しかった。二ヵ月弱で鈍った僕の身体には、特にきつい。
「江森! 一年に遅れるな!」
監督の声が飛ぶ。
「はい!」
僕は今までにしたことのなかった返事をしてみた。二年生は笑う。監督も腕組みをして笑っていた。
僕は今、大人になりつつある時間を野球に使っている。恐怖がないと言えば嘘になる。野球が終わったらどうすればいいのだろう。山形の大学でなにをすべきなんだろう。そもそも、山形の大学に行く頃には、もう僕の自由な時代は終わってしまっているんじゃないか。そんなことを考えた。
来年も再来年も夏休み。そんな茂木さんの言葉が蘇る。
違う。
映画監督になりたい茂木さんは、そんなことを言っていてはいけない。僕もだ。どちらにしろ何者にもなれないまま終わっていくんだから、せめて十七歳の内に勝負をしなければいけない。
そういえば、その茂木さんには休み時間に八ミリビデオを見せられた。
「これが僕?」と思わず言ってしまった。八ミリビデオの中の僕は、夏の太陽の下、フェンスに張りついて野球部の練習を見ている。誰が見たって、野球部に入りたそうにしている生徒に見えるだろう。
「こいつ、野球部戻れてよかったね」
僕は茂木さんに向かって言った。茂木さんは笑っていた。
そうして二〇〇一年九月に野球部に戻ってから、十ヵ月が経った。冬の間は苦しい体力作りにも耐え、チームとしての練習も積み重ねた。僕は受験勉強については疎かにしたけれど、野球に関してはもっとも妥協しなかった十ヵ月と言えた。
時折、気晴らしに深川さんのバッティングセンターにも行った。大塚は僕より真面目に働いて、深川さんに執筆時間を作ってあげている。
そうしている内に、高校三年生を迎えた。高校最後の一年だ。こんなことをしていいのかという思いはもう僕にはなかった。なにも勝負せずに終わりたくない。僕にあったのはそれだけだ。
母さんはまだ受験勉強も少しはしろと言っていたけれど、無視することにした。山形に行く準備なら、もう少し先でいい。
五月のレギュラー発表では、僕は以前と同じく三番ライトになった。背番号9が与えられ、母さんはなんだかんだ言ってその背番号をユニフォームに縫い付けてくれたし、ユニフォームも洗ってくれた。
去年、跳びつけるはずの打球に跳びつかず追い出された夏の西東京大会に、僕は戻ることができた。
*
二〇〇二年七月九日、西東京大会一回戦は、いきなり私立の優勝候補との対戦になった。僕は練習試合からずっと調子を落とさず、三番ライトで出場できている。中西の調子も抜群にいい。それでも五分には戦えないほどの相手だ。
でも、試合は意外な方向に行った。まず中西がソロホームランで先制すると、僕のヒットからの三連打で一気に二点取った。中西の実力なら、三点は抑えられる範囲内だ。
この試合を勝てば、楽な組み合わせが続く予定だ。
ひょっとすると。そんな気持ちがあおい高校全体に流れはじめた。
試合はそこから膠着状態に入った。3―0のまま、中西は一回から八回までを0に抑えた。僕にはセミの鳴き声も聞こえず、猛暑日の日差しも堪えなかった。ただ、今、この時。そう思って守備についていた。
最終回、中西は最初の二人を片づけると、緊張からか、最後の打者になるはずだった相手に甘い球をホームランにされた。そしてさらにその後、二人連続でフォアボールを許した。そして四人目に二塁打を打たれて1点を返されると、五人目にまたフォアボールを出し3―2、ランナー満塁のピンチを作った。
夏の暑さの中で中西は限界だったらしい。そして打順は四番に回った。相手高校のブラスバンド部は激しく音を立て、チームを盛り上げ逆転サヨナラの雰囲気を作った。
ここで跳ばなきゃ、ただの馬鹿野郎だ。僕はそう心の中で呟きながら、一打サヨナラの場面でライトフィールドから中西を見た。明らかに動揺している。
中西が投げたボールを、相手チームの四番打者が打ち返した。長年の経験、打球の音とバットの角度から、自分のところに飛んでくるとわかる。
「跳んで!」
誰かの声が聞こえた。深川さんだ。僕はその声がする前に跳んでいた。
父さんから教わった野球。父さんから十七歳の誕生日にもらったグローブ。母さんの働いたお金で買ったスパイク。それらすべてで僕は跳んだ。
ボールは確かにグローブに入った。でも、僕が不格好に右肩から着地したせいで、そのボールはこぼれた。サヨナラツーベースヒット。エラーも僕についた。
監督もチームメイトも僕を責めなかった。中には僕を慰めるように肩を叩く選手もいた。それでも僕は、帰りのバスには乗りませんと言った。
「気にするな」
「本当にいいんです。お願いします」
「熱中症に気をつけろ」
監督はそう言ってバスに乗った。
僕は球場の駐車場から、球場の出入口まで歩いた。そこに深川さんがいると思ったからだ。
深川さんは、球場から出てすぐの自動販売機脇のベンチにいた。隣には大塚も座っている。
「惜しかったな」
大塚がドクターペッパーを飲みながら言う。
「まあね」
「お前が跳ぶとは思わなかったよ」
球場では次の試合がはじまった。ブラスバンド部の音が聞こえてくる。僕は確かに一度掴んだボールの感触を思い出していた。
「大塚に言ってなかったことがあるよ」
僕は猛暑日に二時間立ち続けて朦朧とした意識の中で、ポカリスエットを買って言った。
「なに?」
「ドクターペッパーを愛飲している奴は頭がおかしい」
「うるせえな」
大塚は笑って、また「よく跳んだな」と言った。
「でも、見たでしょう?」
僕は深川さんに言った。
「結局、これだ」
そう言いながら、僕は自分の右手を握った。
「跳んだら気持ちよかった?」
「いや……」
僕は喉が詰まるのを感じた。
「落としたくなかった」
僕は深川さんの肩にしがみつくと、自分でも驚くほど涙を流した。
「最後の球、落としたくなかったよ」
「そうだね」
「捕りたかった」
僕は泣きじゃくり、深川さんは僕の背中をさすった。
「捕りたかった。勝ちたかった」
これが僕の十七歳だ。その後、僕は都内の大学に進路を変えて、一浪することにした。僕が逃げたことと、僕が跳んだこと、そのどちらもを知っている人たちがいる街に暮らしていたかったから。
キャッチセブンティーン こがわゆうじろう @cold_blue_mind
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