メモ5◆土曜、駅前、香澄と会う約束
バイトで稼いだ金は、何に使うのが一番有益だろうか。
土曜日の駅前で、俺は手帳を眺めていた。
手帳には『土曜、午前十一時、××駅前、香澄と会う約束』と記してあった。
携帯で、まだ十時半であることを確認する。
駅の前はちょっとした広場になっている。中央には大きな木がそびえ、その周りにはペンキの剥げたベンチが設置されている。
俺はその中の一つに座り、香澄を待っていた。
太陽の光を太い枝葉が遮り、俺の上へ影を落としている。一年で最も過ごしやすい初夏の季節。暑くもなく寒くもない、過ごしやすい季候。
しかし、日の光を浴びていないはずの俺の手は、少し汗ばんでいる。どうやら緊張しているらしい。
昨日の講義後、俺は書店でファッション雑誌を購入し、東堂のように『勉強』した。どのような服装なら好意的に思われるだろうかと考えたからだ。かといって香澄に好意を持っているのかと聞かれるとそれはまだよくわからないが、そもそも、そもそも二人で会うときの服装を熟考することは、人と会う上でのマナーである。そう、マナー。俺はマナーを守ってファッション雑誌を買ったに過ぎない。香澄へ好意を持っているか持っていないかはさして問題ではない。マナーだから仕方がないのだ。
……だが、東堂の言った通り、俺は嫌いな人間と二人きりで会うような酔狂な人間では、ない。
…………………………。
いや、どちらにしろ、今の香澄を一人にしておくのは心配である。そう、心配。俺は香澄を心配しているのだ。つらいことがあって、自殺未遂にまで及んだ彼女が、心配なのだ。そうに違いない。
「――くん?」
名前を呼ばれ、はっとして顔を上げると、目の前に香澄が立っていた。
「あ、え」
慌てて携帯を確認する。午前十時四十五分。
「えーと、早いですね」
「君のほうが早いよ。何分待ってたの?」
「えーと……、さっき着いたところです」
「あはは」
雑誌に書いてあった通りの受け答えをすると、香澄はそれを見抜いてしまったらしく、可笑しそうに笑い出した。
俺も、恥ずかしさを誤魔化すため、一緒になって笑った。
「お昼、どこで食べるか決めてる?」
今日は香澄と食事する約束だった。
俺は手帳を確認する。手帳には、候補のレストランの住所と特徴がいくつか記してあった。
「何が食べたいですか?」
「今日は洋食の気分かな」
手帳を読むと、ちょうど、洋食が食べられそうな店が載っている。
店名と住所を伝える。香澄はどうやら気に入ったらしく、そこへ行ってみようと提案してきた。もちろん、案内する。
駅から店へ歩き出すと、香澄は俺の左隣に並んだ。
……手を取ってもいいものか、迷った。
香澄は黒く艶のある髪を風になびかせ、隣を歩く。白いブラウスに、パステルカラーのサマーニット、白い膝丈のスカート、白いパンプス、合皮の茶色い鞄。黒目がちの大きな瞳に、長い睫毛。少し陰のある、触れれば壊れてしまいそうな、儚げな雰囲気。
ふと、香澄と目が合う。
「……君、時計持ってないの?」
香澄が問う。
「ああ、ええと、携帯があるので……」
俺は時計を持っていない。昔は持っていたような気もするが、どこかへやってしまった。それに、携帯を見れば時間は確認できるし、バイト先の時計は一時間ごとに音楽が鳴る仕様なので、特に必要性は感じなかった。
「時計って、男性が気を遣うファッションのひとつだと思うのだけど」
香澄の言葉に、しまったと感じた。そういえば昨日購入した雑誌にも、時計の特集ページがあったことを思い出す。
しどろもどろに目を泳がせる俺へ、香澄は笑いかけた。
「でも、時計がなくても、十分格好良いよ」
「………………」
俺は、無言で香澄の手を取った。
香澄は少し驚いたあと、手を握り返してきた。
そのまま、店まで並んで歩いた。
到着した洋食店は、綺麗で洒落た店だった。店頭には黒板のメニューボードが出ており、そこにはチョークで『本日のオススメ』などの情報が書き込まれていた。入り口の扉は装飾の彫られた白い一枚扉で、金色の縦に長い取っ手がついていた。
取っ手を引いて扉を開け、香澄を先に通す。
店内は照明で白く照らされ、明るい雰囲気だった。白い壁紙には金色の額縁で小さな絵が複数飾られており、BGMには最近流行のポップスが流れている。香澄が磨かれた床を踏むと、大理石の床が小気味良くカツンと鳴った。
ざっと数えたところ、店内には二人がけのテーブルが七つ、四人がけのテーブルが三つあった。そのうちの半数以上が既に埋まっている。どのテーブルにも清潔な白いテーブルクロスがかけられ、その上にコップが伏せられていた。
赤いエプロンを着た女性店員に案内され、香澄と向かい合って席に座る。
店員が、手書きのメニューを俺たちに渡した。そこにはメニューの他に、オススメ品のイラストなどが描かれている。
メニューを決め終わった俺が香澄の様子を伺うと、香澄はまだメニューを睨んでいた。先に飲み物だけ注文する。
「ごめんね、どれもおいしそうで」
「大丈夫ですよ。折角の食事なんですから、おいしいものを食べたいですよね。ゆっくり悩んでください」
「君は何を食べるの?」
俺は、メニューに描かれたイラストを香澄に見せる。
「安直ですが、オススメ品の『ふわとろたまごのデミオムライス』です」
「じゃあ、私もそれにする」
香澄は笑顔でそう宣言すると、店員を呼んで注文内容を伝えた。
飲み物を飲みながらしばし歓談する。
しばらくすると、おいしそうな良い香りが鼻をかすめた。店員がオムライスを運んできたのだ。
香澄は「おいしそう」と言うと、携帯を取り出し写真を撮った。
黄金色に輝く半熟たまごの周りには、デミグラスソースと生クリームがかかっている。出来立ての料理はあたたかく、湯気がふわりと空気に溶けていった。
「じゃあ、いただきます」
香澄に続く。
「いただきます」
銀のスプーンで一口目をすくう。バターライスに、半熟のたまご、デミグラスソース。口に入れると、完璧に調和されたおいしさと、主張しすぎないバターの香りが広がった。
「おいしいですね」
「うん、おいしいね」
香澄と笑いあう。今の彼女には翳りがなく、普通だった。普通に、幸せそうだった。
幸せそうな香澄と、明るく洒落た洋食店。
ドラマの一場面を切り取ったかのように、絵になる光景。
ただ、『似合っていない』と思った。
幸せそうな『役』は、明るい店は、香澄には似合わない。
香澄本人は楽しそうにしていたが、俺は、この店を選んだのは失敗だったと感じた。
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