メモ3◆香澄と名乗る女性について
俺と女性は、駅南方面のこぢんまりとした喫茶店にいた。
素朴な木の風合いを活かしたレトロな内装。アンティークな壁掛け時計。木製の柱は焦げ茶で、壁紙は薄茶色にくすんでいる。元は白かったのかもしれない。この場所で長い時間が経過したことがわかる。そんな店内を、暖かいオレンジの照明が柔らかく照らしていた。
席はカウンターとボックスの二種類。カウンター席は琥珀色のテーブルに、背の高い黒い椅子。ボックス席は焦げ茶のテーブルに、臙脂色のソファー。
客が少なかったため、俺と女性はボックス席へ座った。
店内には、控えめな音量でジャズ(だと思う)が流れている。
「いい雰囲気のお店ですね。よく来られるんですか?」
女性が、鞄をソファに置きながら尋ねる。
俺は女性へ苦笑いを返す。
「いえ、実は、初めてです」
「そうですか。私も初めて来ます。まだ引っ越してきたばかりなもので」
「そうだったんですね」
「ええ、でも、今すぐこのお店の常連になってしまいそうです」
女性がそう言うので、俺は思わず笑ってしまった。
たぶんこの辺だっただろうと探してみてよかった。友人と、なによりこの喫茶店の話を覚えていた俺、グッジョブ。
カウンターの向こう側にいた初老の男性が水とおしぼりを運んできた。恐らくこの喫茶店のマスターだろう。マスターの白髪頭はすっきりと整えられており、店の雰囲気に合った古風なYシャツに黒いエプロンを合わせていた。
ついでに、何か注文することにする。
「俺はコーヒーをお願いします。お姉さんはどうします?」
「それじゃあ、私もコーヒーで」
「コーヒーおふたつですね」
マスターが注文を紙に書き留め、カウンターへと戻っていく。
コーヒーが運ばれてくるまでに雑談でもしようかとして、俺は、女性の名前すら知らないことに気付いた。
「あー……あの……今更で申し訳ないんですけど……お名前とか……」
「あ、そっか。私たち、自己紹介もしていませんでしたね」
命の恩人なのに名前も聞いてなかったなんて。女性は少し照れて、小さく笑う。
可愛らしい人だと思った。
誘った手前、俺から名乗る。次いで女性が名乗った。
「
「はい」
「綺麗な名前ですね」
「……ふふっ、ナンパされてるみたい」
「あ、す、すみません。気を悪くされましたか?」
「いいえ、嬉しいです。ありがとうございます」
お互いに照れて、会話が途切れる。
そこに、タイミングよくコーヒーが運ばれてきた。
俺は、沈黙を誤魔化すように、コーヒーに砂糖を入れる。砂糖を入れている間は、その作業に集中していることを演出できるので、会話をしなくてもいい。そう、砂糖を入れている間は会話なんてなくてもいいのだ。我ながらなんと素晴らしい発明だろうか。
しばらく、その場に砂糖を入れる音だけが響く。
さて、何を話そうか……。
「……とても、甘党なんですね」
「え?」
やっと、砂糖を入れ過ぎたことに気付く。スプーン十杯ほどを投入してしまった。いつもの実に三倍以上の量である。
「あ、えっと、あの」
「いいんですよ。甘いものが好きな男性なんて、いまどき珍しくありませんから」
言いながら、香澄はコーヒーに何も入れず、そのまま飲んだ。
コーヒーはブラック派らしい。
それに倣うように俺もコーヒーを飲む。
甘い。
すごく甘い。
甘過ぎるくらい甘い。
ミルクなんていらない、甘い。
「……あの、香澄さん」
俺は甘すぎるそれをソーサーに置き、仕切り直すように言った。
「昨日の行動の理由、って、聞いてもいいでしょうか?」
「昨日の行動の理由、ですね」
香澄は、陰のある表情になり、俺からコーヒーへ視線を落とした。
「無理にとは言いません! ただ、あの……」
なんと無粋な好奇心だろう。
香澄が首をふる。
「いいんです。あなたが理由を聞きたいのは、当然のことです。それに……私も、誰かに聞いてもらいたい。あるいは、聞いてくれる誰かさえいれば、私は思い留まったのかもしれません」
そして視線を下げたまま、語り出す。
「私が最近引っ越してきた、というのは、話しましたね」
「はい」
「私……彼の転勤に合わせて、越してきたんです」
「旦那さんですか?」
「いいえ……籍は入れていません。けど、新居で同棲しようと話していました。だから、私、前のアパートを引き払って、仕事も辞めて、彼についてきました。けど……」
香澄は、一層俯いた。
「……彼、結婚していたんです」
「え?」
「彼、私以外の女と、もう結婚していたんです。以前住んでいた場所で家族と一緒に住んでいて、私とは浮気だったんです。転勤で家族と離れるから、新天地で私と堂々と浮気するつもりだったんです。引っ越してしばらくは、私、幸せでした。けど、彼の奥さんが突然新居を訪ねてきて、それで、全部、知ってしまったんです。……全部、終わってしまったんです」
言うと、香澄は、膝の上に握る両手へ雫を落とした。
彼女の吐露を、俺はただ、聞くことしかできない。
彼女は話し続ける。
「彼、私にはずっと『身内の介護で忙しい』なんて言って、デートの時間もずっと彼の都合だし、家には来ないで欲しいって言うからその通りにして、介護には意外とお金がいるからって支払いはいつも私で、でも、彼、愛してるのは私だけって……」
「浮気だって、たぶん、薄々気付いてた。でも、気付かないフリしてた。都合がいいだけの女だって、本当はわかってた」
「けど! だけど、彼が『愛してる』って言ってくれたから、だから、彼のこと信じてた! 私が支えてあげなきゃって思ってた! けど全部嘘だったの!」
「私、彼に遊ばれてただけだって気付いて、私、何もなくなっちゃったの。これまで彼のために使ったお金や時間、家、仕事、……彼からの愛情も、全部、なくなっちゃったの」
「だから」
香澄は、両手で顔を覆った。
「死ぬしかないって思ったの」
「………………」
俺は、何を言えばいいのかわからず、ただ、彼女を見つめている。
いつの間にか、マスターがそっと俺に近付いて、何かを差し出した。
白いタオルだった。
俺はそれを、頭を下げながら受け取り、目の前で泣いている香澄へと渡した。
「あの、香澄さん……これ……」
「……ありがとう」
香澄が、タオルを受け取り、目元を拭う。
それでも、俺はかける言葉を見つけられず、涙を流すままの彼女を、見つめることしかできなかった。
しばらくして、香澄は泣きやみ、化粧の崩れた顔で不器用に笑った。
「ごめんね、こんな話して。馬鹿な女だって思ったでしょう?」
「いいえ! 全然! 香澄さんは悪くないですよ! 悪いのは浮気してた男の方です!」
「ふふ、そうね。最低の男だったわ」
「そうです! 最低です! 俺なら……」
『俺なら』?
俺は、なんとなく気恥ずかしくなり、視線を香澄からテーブルに落とした。
「……俺なら、香澄さんを弄んで捨てるようなこと、しません」
「………………」
「許せませんよ、そんな男」
香澄は、少し黙った。気まずくて、俺は顔を上げられない。
「……あなたみたいな人と、もっと早く出会っていればよかった」
ぽつり、彼女はそう呟いた。
その後、俺と香澄は世間話をして過ごした。
彼女を慰めるようなことはできなかったが、少しでも、気を紛らわせられたことを願う。
バイトの時間になり、俺が慌てて席を立とうとすると、彼女が言った。
「連絡先、交換しませんか?」
俺は、今日これっきりで彼女とは二度と会えないものだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
俺は快諾し、香澄の連絡先を手に入れた。
今日は俺が誘ったからと、伝票片手にレジへ向かう。そして、マスターにタオルの礼を言った。レジを打つ紳士然とした初老のマスターからは、ウインクが返ってきた。案外茶目っ気のある人らしい。
香澄だけでなく、俺まで常連になってしまいそうだ。
バイトを終え、携帯を確認すると、香澄からメールが届いていた。今日の礼と、今後どうするかもう少し検討する旨とが書かれていた。
俺は応援の言葉に、『また会ってお話しましょう』と加えて送信し、その日は就寝した。
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