8.校内放送と『未来』の半券

66話 校内放送

 男子に告白された時も、それから女子に告白された時も、正直ピンと来なかった。異性にも同性にも心が揺れない、そういう人も中にはいると本で読んでからは、それが私の普通なんだと思うようになった。よりにもよって私なんかを選んだ人には悪いけど、好きだの、愛しているだの、そんなことを言われたって、なに一つ共感できなかった。その相手が次の日死んだとしても、なにも感じない自信がある。私はその人の死体を横目に学校に向かうはずだ。


 寂しくはない。私は私で写真の世界に耽溺していたから。


 私の被写体はいつも人物だった。特に泣いている人が、私の作品の大半を占める。ただ泣いていればいいというわけじゃない。その涙は美しくなきゃいけない。本当に美しい涙を写真に収めた時だけ、人が人を愛するということに、少しは合点がつくのではないか、私はそう考えていたんだ。しかし、どれだけ写真を撮っても、あの篠原先輩の写真を撮った時以上には、真実、愛に近づいている感触がなかった。


 むしろみんな私と一緒なんだと思った。たとえ付き合っていても、結婚していても、いくら好きだと言っても、愛していると宣っても、それは上辺だけのことで、本当のところは違っていて、誰も真実の愛なんて持ち合わせていないんじゃないか。


 例えば私の両親にしたって、恋愛結婚だと言っていたけれど、今の二人が愛し合っているとは到底思えない。別に仲が悪いわけじゃない。けど、二人が仲睦まじく連れ添っているのは、ただ単にその方が何かと都合がいいからだ。離婚する理由がないから、結婚しているだけ。離婚する夫婦の方が愛について厳格なはずだ。


 祖父はどうなのだろう。孫の私を随分と可愛がってくれた。でも、それも自分の勝手な都合でそうしたまでなのかもしれない。要するに私は信じることができないんだ。自分の持っていないものを誰かがしっかり握りしめているなんて。


 だからきっと、私が撮りたいのは証拠写真なんだ。真実、愛の存在を決定的に知らしめてくれるような瞬間を私は探していた。


 あれは四月、私たちが中学三年生に進級した時のことだった。始業式も済んで、私は写真部の部室に籠って、カメラの手入れをしていた。


 手のひらに収まるくらい小さい単焦点レンズの黒いカメラ。祖父が買ってくれたものだ。こんな小さななりをしているわりに、とんでもない値段がする。私のお小遣いではとても買えなかった。単焦点レンズなので、撮れる写真は限られるのだけど、常に持ち運べるコンパクトさは私の用途に合致していた。日常のどんな些細なことでも撮り逃がすことがないように、私はこのカメラを欠かさずに持っている。私の待ち望む瞬間がいつ訪れるかわからないから。


 そんな時だった。視聴覚室のドアが勢いよく開いて、彼女は姿を見せた。見覚えのある子だった。確か同じクラスの、そう、みんなからお休みさんとか呼ばれている子だ。


「あなたが写真部の部長ですね?」


「……そうだけど」


 二年の時も同じクラスだったのに、彼女の名前を思い出せない。彼女はクラスでいじめられているわけでもないのに、急に不登校になった変わった子だ。いつもお休みだから、お休みさんとか、眠り姫とか好きに呼ばれている。最近学校に戻り始めたようだけど、休んでいた理由は聞いていない。話をするのもこれが初めてだった。


「今日から、この部室は映画部のものです!」


「映画部? なに言ってるのさ、きみ」


「ふふ、視聴覚室にはプロジェクターがありますからね。ここを部室にすれば学校でも映画が楽しめるわけです」


 映画ってのはあれか、人もカメラも動き回って、喧しい音で騒ぎ立てる、まったく風情のないものだ。俗に活動写真と呼ばれている。写真は全てが静止しているからこそ、一瞬の美を切り取れるのだ。それをダラダラと引き伸ばしたところで、醜態を晒すだけだとどうしてわからないんだろう。


「悪いけど、ここは写真部の部室なんだよ」


「ええ、分かっていますよ。顧問の先生から聞きました。写真部は幽霊部員だらけの実態のない部活だと。だから、映画部を作りたいなら、写真部に混ぜてもらいなさいと言われてしまって……いいですよね?」


「呆れたね。あの先生は写真と映画の違いも分かっていないようだ」


「私もそう言いましたよ。映画を写真なんかと一緒にしないでくださいって。でも、映画も画像の寄せ集めでしょって。それでその言いくるめられてしまって……」


「写真なんか、ね……言ってくれるじゃないか」


 参ったな。ここは私だけの安寧の城だったのに、余計な小娘が紛れ込んだものだ。こういう他人の懐にズカズカ踏み込んでくる女が一番嫌いなんだ。


「ねぇ、きみさ……」


 こんな名前も知らない女はとっとと追い出そう、そう思った時だ。校内放送を告げる木琴の音が流れた。


[三年一組、高槻よしのさん、至急職員室まで来てください。繰り返します。三年一組、高槻よしのさん、至急職員室まで来てください]


 思い出した。彼女の名前はよしのと言うのだ。随分、可愛い名前だけど彼女には相応しくない。しかし、追い出す良い口実ができたと私は喜んだ。


「ほら、呼ばれているよ。きみのことだろう?」


 だけど、私の声なんか彼女には聞こえてなかった。彼女は青ざめた顔で、放送を流したスピーカーを見上げて立ち尽くしていた。彼女の手が徐々に持ち上がって、やがて自分の頭を抱える。顔はくしゃくしゃに歪んでいた。


「——————っあああ」


 それは短い叫びだった。そこまでしてようやく私にもただ事でないと分かった。放送を聞いて彼女は重大な何かを悟ったんだろう。彼女の瞳から大粒の涙が流れ始める。それからも彼女は叫んでいたんだと思う。だけどそれは声にもならず、掠れた喘ぎにしかならなかった。


 私は咄嗟にカメラを構えたけど、シャッターなんてとても押せなかった。首を振って、カメラを下ろし、床に崩れ落ちた彼女に歩み寄った。証拠写真なんて必要なかったんだ。だって彼女は私の目の前に実在していて、そのあまりにも美しい涙は真実の愛を証明していたから。


 膝を床について彼女の背中をさする。音を立てて息する彼女の痩躯は小刻みに揺れていて、その激しい振幅が手に伝わってくる。彼女は私には捉えようもない感情に身をやつしていた。


「立てるかい?」


「……約束したんです」


「約束?」


「また映画館に行くって約束したんです。なのに、なのに」


「そう……」


 約束は果たされなかったというわけか。私は彼女の手を自分の手で包んだ。硬く握りしめ過ぎて真っ赤になったその小さい手は暖かくて、手汗が滲んでいる。彼女がその気になるまで、辛抱強く待ったと思う。ハンカチで目を拭ってあげながら、私は彼女を羨んでいた。どうして、私にはその綺麗な涙が流れてくれないんだろうと。


 彼女は長い時間の果てにようやく立ち上がった。その手を引いて、職員室までゆっくり歩いた。あの時ほど廊下が長く感じたことはない。


 職員室の前で、ネクタイをしめた担任の先生と高校の制服きたお兄さんが彼女を待っていた。彼女はすぐにお兄さんの方へ飛び付いていった。


 自分の胸で泣きじゃくる彼女にお兄さんは言った。


「よしの、そのままでいいからさ、一緒に迎えに行こうな」


 その優しい一声で、その兄妹は歩き始めた。私はその二人の背中を一頻り眺めていたはずだ。たぶん、目に焼き付けていたんだと思う。




 彼女はそれからまた学校を休み始めた。私は適当な理由を付けては、彼女の家を訪れるようになった。彼女の部屋に入って馬鹿話を興じては、棚に並んだ映画のディスクのタイトルをこっそり覚えた。彼女と同じ映画を見ているうちに、私は映画の良さも少しはわかるようになった気がする。彼女の気持ちだって少しは理解できたかもしれない。


 けれど彼女を外に連れ出すことは私にはできなかった。彼女がまた映画館に通えるようになったのは、篠原先輩たちのおかげだ。なんて眩しい二人なんだろう。


 私はそんな二人を暗がりから覗いていることしかできないんだ。

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