63話 ホームポジション

 環さんにはすぐ追いつくことができた。


「きみには随分と迷惑をかけたね」


「いいえ、そんなことは……」


「そんなことあるよ。こんな時間まで付き合わせてごめんね。駅まで送ってあげるよ」


 俺は環さんと一緒に仙台駅に向かって歩き始める。顔を伏せて歩く彼女はやっぱり元気がなさそうだった。駅に着くまで、俺は他愛もない話しかできなかった。篠原の時もそうだったけれど、辛いことでうちひしがれている人にどんな言葉をかけていいかわからない。


 駅に入ると、環さんが財布からお札を数枚渡してくれる。


「これ、交通費と少ないけどバイト代、これでお土産でも買うといいよ。それからこれね」


 環さんは俺に脚本のデータの入ったフラッシュメモリを手渡した。


「最後に少し話さない?」


「いいですよ」


 駅構内のベンチに二人で腰を下ろした。


「私ね、小説家目指してたんだ。そう、ちょうどきみのお父さんみたいな小説家にね。父親からはそりゃ猛反対。家を飛び出すように今の大学に行ったの。在学デビューするんだって息巻いてね。結局、箸にも棒にも引っ掛からなかったけど……」


 環さんは俺の方は見ないで、改札の向こう側の雑踏を眺めていた。


「そしたら、今度は結婚しろ、見合いしろってうるさく言うようになって。まあ、私の身を案じてくれているのはわかってるんだけどね。色々、嫌になってさ。だから、きみにあんな無茶を頼んだってわけ」


「そうだったんですか」


 正直、小説家になることがどれだけ難しいのかはわからない。親父が小説家だったから、そんなこと意識したことはないけど、挫折する人も多いのだろうか。


「きみのお父さんはどんな人だったの?」


 環さんに聞かれて、俺は苦笑するしかなかった。


「こっちもおんなじですよ、生きている間は青春しろだの、彼女作れだの、口うるさく言われました。むしろ死んでからも、騒がしいくらいで」


「そっか、ちょっと安心した」


 生きていても死んでいても父親とは厄介なものなんだろう。実際、親父の持ち物のせいで、今もこんな厄介ごとにも巻き込まれている。


「悔しいけど、あのくそ親父の言う通りなのかもね。たとえ馬が死んでも、インターフェースだけは手放せないんだよ。私もまだ諦めきれてないの」


「……それでいいんじゃないですかね。砂漠に留まるよりはずっとマシです」


「……ありがとう、なんか励まされちゃったね。そろそろ、戻るね。また話し合ってみるよ。まあ、無駄だろうけど。じゃあ、彼女さんと仲良くね、少年」


「あ、待ってください」


 環さんが立ち去ろうとするので俺は呼び止める。


「なに、やっぱり私に乗り換える?」


「そうじゃなくて……結局、秘密ってなんだったんですか?」


 ああそれね、と環さんは呟いてから、またベンチに座った。俺にキーボードを出してと頼んでくる。俺は鞄から親父のキーボードを取り出した。


「秘密ってほどでもないんだけどさ。ちょっと気になってね」


 環さんは俺のキーボードのキーを指で撫でる。


「やっぱりだ。普通キーボードってね、FとJのキーに触ってわかる小さい突起が付いているのよ。ホームポディションキーって言うんだけど、タッチタイピングに必要な印なわけ」


 確かに環さんのお父さんのキーボードには突起があった。あれが普通のキーボードというわけだ。無刻印でもそれは変わらない。


「だけど、どういうわけかきみのキーボードにはそれがないわけ。代わりに、別の場所に突起があるけどね。ほら、わかるでしょう?」


「あ、本当だ。Yのキーに小さい突起がありますね」


「そんなところに印があっても混乱するだけね。どうして入れ替えたのかな」


「Y? なにか意味があるんでしょうか?」


 環さんはうーんと唸った後、思いついたように俺に訊いた。


「何かYの字で思い浮かぶことはない?」


「え、なんだろう。特に思い付きません」


「じゃあ、きみの名前は?」


「? 悠太ですけど」


「妹さんは?」


「よしのです」


「ほう、じゃあ、お母さんの名前は?」


「陽子です。何か関係あるんですか?」


「鈍いね、少年。アルファベットにしてみなよ」


「あ、まさか……」


 Yは三人の名前の頭文字だ。


「要はさ、そこが彼のホームポジションだったわけだ。……私もちゃんと見つけないとね」


「環さんなら大丈夫ですよ」


 彼女はゆっくり頷いた後に、これを小説のネタにしてもいいかと俺に訊ねる。俺はジャンルはどうなるのかと訊き返した。まさかラブストーリーにする気じゃないよな。そうね、と環さんは一考したのちに、多分ミステリーになるわと答えた。

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