62話 貴様なんかに娘がやれるか!

 環さんの実家に入ると、お母さんが出迎えてくれて、和室に案内された。和室には環さんのお父さんが床の間を背負って座っている。環さんと同じように眼鏡をかけていた。頭には白髪が目立っているが、年老いた印象はなく、痩せて細っそりした体を姿勢良く保って正座している。思っていたより普通の人で安心したくらいだ。


「君が環の恋人かね?」


 張り詰めた声が滔々と訊ねる。


「はい、高槻悠太です。今日はお招きいただきありがとうございます」


「招いた覚えはないが、まあ座りなさい」


「失礼します」


 敷かれた座布団に環さんと一緒に座った。もちろん正座だ。


「随分若いようだが、仕事はしているのかね」


「あ、はい、一応大学生をしています」


「学部は?」


「えっと、その……」


 まずいそこまで設定を練ってはいなかった。途端に言葉に詰まってしまう。


「彼、同じ大学の文学部にいるのよ。文学や現代思想を学んでいるの。卒論はユイスマンスにするのよね?」


「あ、そうです。はい」


 環さんがなにを言っているのかわからないけど、とりあえず頷いておく。


「要するに文系だろう? 就職は決まっているのか?」


「失礼ね、彼はもう一流商社に内定をもらっているのよ。ね?」


「はい、一応そうです……」


 これ以上嘘に嘘を重ねても、辛くなるばかりだと思うのだけど、環さんは俺の嘘の経歴をつらつらと喋り続ける。俺はたじろいでばかりだ。


「まあそこそこ立派な経歴なのかもしれないが、だからといって娘を任せられるとも限らん。人間はやはり中身が肝要だ。君が娘に相応しい男なのか、試させてもらおう」


 そう言ってお父さんは立ち上がって部屋を出る、そして何かを持って戻ってくる。それはもしかしなくともあのキーボードだった。


「最近の若者はろくにパソコンも使えないと聞いたが、どうかな?」


「え、どうでしょうね。確かに俺はパソコンを持ってないです。最近はスマホやタブレットで事足りることも多いですし」


「じゃあ、キーボードも碌に扱えない輩も増えたわけだ。本当に嘆かわしい」


「ちょっと、お父さん自分がエンジニアだからって、変なこと言わないでよ」


「変じゃない、ちょっと彼を試してみるだけだ。君、本当に娘を愛しているのなら、このキーボードでその気持ちを書いてみなさい」


 お父さんからキーボードを渡される。それは俺や環さんのと同じキーボードだった。


「ふん、無刻印のキーボードなんて触ったこともないだろうな。それを使いこなせたら、娘との婚約は認めてやる。まあ、どうせ無理だろうがな」


 お父さんはおそらく俺がまっさらなキーボードを渡されて困惑すると考えたんだろう。生憎にも俺は環さんにそのキーボードの使い方を叩き込まれたばかりなのだ。脚本は流石に厳しかったけど、簡単なメッセージくらいなら造作もない。


『僕が娘さんを幸せにします。どうか結婚を許してください』


 俺は自分のスマホに接続して、そう文字を打ち込んだ。配列からなにまで同じキーボードだったけど、少し違和感があった。FとJのキーに小さな突起が付いているのだ。まあ、その方が両手を定位置に持ってきやすいので、文字を打ち込むのに支障はなかった。


「な、なかなかやるじゃないか。よし、次はプログラミングの腕を見せてもらおうか」


「お父さん、彼は技術者じゃないのよ。いい加減にして」


 娘に嗜められて、お父さんは明らかに狼狽えた。


「だいたい結婚しろってうるさかったのはお父さんでしょう。ちゃんと相手を連れてきたわよ。これで文句ないはずよ」


「だ、だがどこの馬の骨ともしれない男に娘をやれるか」


「あらそう? でも少なくともお父さんの大好きなキーボードは使いこなせるみたいよ、彼。まさかキーボードで娘の結婚相手を決めるなんて思わなかったけどさ」


「馬鹿! インターフェースは重要だろう。いつも言っているじゃないか、カウボーイは砂漠で乗っている馬が死んだら馬は置いて行くが、鞍は担いででも持って行くと」


 馬? 砂漠? キーボードの話だよな?


「その話、1000回は聞いたわね。まあ、自分が捨てられる馬だってことには気付いてないようだけど」


「なんだと! 父親になんてこと言うんだ。だいたいお前は昔から勝手なことばかりして、俺の言うことなんて碌に聞きもしないんだ」


「そう? ちゃんと聞いてたわよ。『それを使いこなせたら、娘との婚約は認めてやる』って確かに言ったわ」


「そ、それは……」


「男に二言はないわよね?」


 お父さんはかなり苦悶の表情を浮かべた後、渋々といった様子で俺を向いた。


「……わかった。君を信じよう。その代わり娘を泣かせたら、覚悟しておきなさい」


「わ、わかりました、お父さん」


「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない!」


 ここ一番に叫ばれたので驚いたが、言ってみただけだ、とお父さんはすぐにケロッとした顔に変わった。本当、はた迷惑な親子だ。


「ちょっと待った! 親父、騙されてんぞ」


 襖が勢いよく開かれて、車でどこかに行っていたお兄さんが部屋に入ってくる。入るなり凄まじい形相で俺を睨みつけた。手には小さい手帳が握られていた。


「これ、お前んだろ?」


 お兄さんは俺に手帳を手渡した。それは俺の高校の生徒手帳で、校則に従って常に持ち歩いていたものだ。どうやらお兄さんの車に落としてしまったらしい。それを見つけて慌てて戻ってきたようだ。


「オメー大学生なんて嘘だべ? まだ高校生じゃねーか!」


「高槻くん、これはどういうことかね?」


 万事休すだった。もうすべてを打ち明けるしかない。観念した俺が事情を話そうとすると、環さんが先に口を開いた。


「彼は悪くないわ。私が無理言って頼んだのよ。婚約者のふりをしてって。だから、責めるのは私だけにして」


 口にしながら、環さんの顔にみるみる陰りが増していくようだった。


「どうしてこんな嘘を吐いたんだ」


 先ほどよりも声色が厳しいものに変わっていた。お父さんの怒りの矛先は俺ではなく、真っ直ぐ環さんに向いている。


「だって嘘吐かないとお父さん、怒るじゃない。本当のことを言ったって納得しない。……私の夢だって認めてくれなかった」


「当たり前だ。あんな絵空事に人生を費やすべきじゃない。いいかげん現実を見るんだ。お前に幸せになって欲しいから言うんだぞ」


「やっぱりね。お父さんは本当の私を見てくれないじゃない。結婚なんて絶対しないわ。だってこれが、私の現実だもの」


 目に涙を溜めた環さんは立ち上がると、そのまま部屋を出て行った。どうやら、家の外に向かったらしい。


「きみ、さっそく娘を泣かせてくれたな」


「いや、泣かせたのはお父さんでしょう」


「きみにお父さんと呼ばれる筋合いは……いや、もういい。悪いが、環の様子を見て来てくらないか? 私が行っても逆効果だろうから……」


「はい、ちょっと行って来ます」


 生徒手帳を落とした俺にも責任がある。俺は正座で痺れた足を奮い立たせて、家を出た環さんを走って追いかけた。

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