61話 私の婚約者になってよ
車に乗せられて数時間後、俺は知らない街の一軒家の前で降ろされた。車を運転してくれたのは環さんのお兄さんだったらしい。すごいスピードで高速を飛ばしてくれたので、自分が今東北にいるという実感はあまりない。お兄さんは俺たちを降ろすと、車でどこかに行ってしまった。
「それで、どういうことなんですか?」
車の中で環さんに詳しい事情を聞こうにも、彼女は例のキーボードで何かを集中して書いていて、俺が声をかけても上の空だった。結局状況もわからないまま、ここまで来てしまった。
「どうって、仙台に来たのよ。標識見たでしょう?」
「そうじゃなくて、どうして俺はここに連れてこられたんですか」
「言ったでしょう。しつこく言い寄ってくる男がいるのよ。まあ、私の父親なんだけどさ。大学卒業したら、結婚しろしろうるさいの。見合い話ばっか持ってきてさ。いい加減うるさいから、彼氏連れてきたってわけ」
「聞いていた話と違うんですが」
「まあ、大枠は一緒よ。恋人のフリをしてくれればいいの。お願い、後で別れたことにするからさ。私の婚約者になってよ」
「俺、帰りますね」
俺は逃げの姿勢を見せると、環さんは眉一つ動かさず言う。
「別にいいけど、向こうまで帰るお金あるの?」
言われて財布を見たが、碌な金額は入っていない。親に連絡するにしても、なんと事情を説明すればいいのか。まさか篠原に相談するわけにもいかない。
「それにこれは欲しくないのかな?」
環さんが取り出したのはフラッシュメモリだった。
「ここに脚本の完成稿が入っているんだけど」
まさか車に乗っていたあの短時間で脚本を書いたというか。確かにものすごいスピードでタイピングしていたけど、いくらなんでも早すぎないか。環さんのハッタリだろうか。
「嘘吐いたのは謝るよ。交通費とバイト代も出すからさ、お願い、人助けだと思って」
手を合わせてそうお願いされると、こっちも断り辛い。しかし、父親に嘘を吐いても環さんのためにならないような。俺の頭の中の天秤は左右に振れ続ける。
「やっぱりダメです。こんなことするべきじゃないと思います。脚本も自分でやりますから」
その場から離れようとする俺に環さんが縋り付いてくる。俺は構わずに歩き続ける。
「お願いだよ、少年。きみのお父さんのキーボードの秘密も教えてあげるからさ」
俺ははたと立ち止まった。
「キーボードの秘密? なんですかそれ?」
「お、気になる? それじゃあ私と契約しようか」
「いや、ここで教えてくれませんか?」
「おっと、前借りはダメだよ。そっちも約束守ったら、教えたげる」
環さんは不敵に笑った。また騙されているのかもしれない。そもそもこのキーボードに秘密なんてあるのだろうか。秘密どころか、なんの目印もないキーボードなのに。
「まあ、目で見たってわからないこともあるよ。人と一緒でね」
環さんは思わせぶりなことを言って俺を実家へと引っ張っていく。俺は仕方なく、折れることにした。やはり秘密と言われると気になってしまう。それに親父のことだったら、なんでも知っておいておきたかった。もうその機会はあまり多くはないだろうから。
エマと私はタクシーを降りて、彼を見張った。彼が乗った車がやけに飛ばすので、やや出遅れたけど、なんとか彼が環という女性と、一軒家に入るところを確かめることができた。
「しかし、なかなか出てこないわね」
家の前に二人で二時間程粘ってみたが、彼は姿を見せない。
「ミズキ、もうしばらく出てこないんじゃないですか? わたし、もうお腹が空きましたよ」
「だめよ、まだ浮気の証拠を掴んでないのに、諦めるわけには……」
「本当、ミズキは強情ですね。……ん、なんか音楽が聞こえますね」
「え? 本当だわ、これはジャズね」
サックスやピアノの音色がどこからともなく聞こえてくる。どこかで演奏しているみたいだった。
「行くわよ、エマ」
「え? ユータはいいんですか」
「もういいわよ、あんなやつ。それに女の人と家に入ったことはわかったから、後できっちり問い質す。今はそれより演奏が気になるの」
私とエマは歩いて演奏の出所を探した。やがて、欅並木の通りに行きあたる。通りの中央にステージが作られ、ジャズ奏者が生演奏を披露している。大勢の人が立ち止まって、演奏に聞き入っていた。ステージ近くで配られたパンフレットをエマがもらってくる。
「ミズキ、どうやら仙台でジャズフェスタをやっているみたいです」
「本当? ちょっと貸して」
パンフレットにはジャズフェスの概要が書いてある。仙台の街の各所に設置されたステージで、一日中ジャズを演奏するらしい。中には私でも知っているような演奏者が出演するステージもあった。
「せっかく仙台に来ましたからね。少し回ってみますか?」
「そ、そうね、少しだけよ、ほんの少しだけ楽しみまくりましょう」
それからエマと二人でジャズフェスや仙台観光を一頻り楽しみ尽くした。あのポンピドゥセンターにも似た透明な図書館にも行った。お店で牛タンを食べた後、お土産を選びながら、ずんだシェイクを飲んでいる頃には、彼のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
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