59話 自慢の彼女

 環さんと約束した時間よりも早く俺はカフェに着いて、脚本の執筆を続けていた。環さんの指導のお陰でキーボードには慣れてきたけれど、正直脚本の方はあまり上手くいっていない。環さんはスートーリーの作り方や文章作法をわかりやすく教えてくれたけど、やはり書き手が書き手なだけに簡単にはいかない。


「お、少年。もう来てたんだ。随分早いね」


「環さんこそ、早いじゃないですか」


「まあね、きみにこれから面倒を掛けるのに、待たせるわけにはいかないよ」


 今日、環さんにしつこく言い寄る男とここで会うことになっていた。恋人のフリなんて気が進まないけど、約束したからにはできる限りのことはするつもりだ。まあ、俺みたいな恋人がいるくらいで、向こうが環さんを諦めるとも思えないけど。むしろハードルが下がるくらいなんじゃないか。


「タイピング上手になったじゃない。それだけたくさん書いたってことだよ、えらいえらい」


「環さんのおかげです。やっぱりキーボード入力の方が早いですね」


「このキーボードが高速タイピングに向いてるのよ。さて、脚本はどうかな?」


 環さんはタブレットを取り上げて、俺の書いた脚本を読み始める。最初は笑っていたが、徐々に渋い顔に変わり始める。


「教えた私にも責任があるけど、これはダメだね。きみ、本当に晋作さんの息子なの? あんまり才能ないね」


 自分でわかっていたことだが、改めて人に言われると心に刺さるものがある。


「どんなところがダメでしたか?」


「そうね、まずリアリティがないわ。このヒロインの女の子……ツンデレっていうの? いくら素直になれないからって、好きな男の子にここまでする? 靴を投げたり、押し倒したり、ヒールで足を踏んだり、ほとんど暴力じゃない。現実味がなさすぎよ。こんなのがきみの理想なの?」


「いや、別にそういうわけじゃないですけど。そこは直しておきますね」


 俺が言うと、隣の席でガタゴトと音が聞こえた。隣の席には帽子とサングラスとマスクで顔を覆った二人組が座っている。片方が怒っているのか、テーブルに拳を叩きつけている。関わると面倒そうなので、俺はすぐに目を逸らした。


「いや、これはもう私が書いた方がいいかもね。〆切まで時間がないんでしょう? やっぱり自分で書くのと、教えるのでは勝手が違うみたい。ごめんね。脚本は代わり書いてあげるから安心して」


「それは助かりますけど。大丈夫なんですか? あんまり時間ないですけど」


「そうね、何かネタが欲しいところね。そうだ、彼女さんとの馴れ初め聞かせてよ。参考にするから」


「え、篠原ですか?」


「そう、篠原さん。二人はどうやって出会ったの?」


「それは……」


 俺は四月からの篠原との経緯を話し始めた。自分でもびっくりするくらいするする言葉が出てきた。まだ出会って日も浅いのに篠原とは色々思い出があった。それだけ、篠原が特別ってことなんだろう。


「篠原は俺にはもったいないくらいの彼女なんです。本人の前では言わないけど、誠実で、努力家で、優しくて、卑怯なことなんか絶対しません。あいつに出会えて、俺は本当に幸運だったと思います」


 せっかくいい話をしているのに、隣席から奇妙な唸り声が聞こえてくる。やっぱり少しおかしい人みたいだ。絶対に関わらないようにしないと。


「そっか、自慢の彼女さんなのね。無神経なこと頼んじゃったね。それに、お父さんのこと……ごめんね何も知らなくて、余計なこと言ったかもしれない」


「いえ、全然そんなことないですよ。親父の話ができて嬉しかったです。今日は、環さんの恋人に相応しいよう頑張りますね」


「……どうしてそうなるのよ!」


 ん、隣から篠原の声が聞こえたような気がした。もう一度、隣席を窺うと、一人がもう片方の口を必死に押さえ込んでいる。何かあったんだろうか。だいぶ揉めているみたいだ。


「あ、例の彼が来たみたい。こっちよ!」


 男の人がカフェの入り口から入ってくる。環さんより年上のようだった。不機嫌そうに顔を強張らせて、近づいてくる。どうしよう、結構怖そうな人だ。


「誰だ、おめえ?」


 男は俺の姿を認めると、開口一番に訊いてくる。どかっと音を立てて向かいの椅子に座った。


「嫌だな、電話で話したでしょう。私の彼氏よ、彼氏」


 俺は話を合わせるために頷いて、自己紹介をした。設定では俺も近隣の大学生という事になっている。


「ふーん、随分若そうだな」


 男は俺の顔を舐め回すように睨みつける。


「おめえ、こんな女のどこがいいんだ? まあ、見てくれは悪くねぇけどな」


 ガハハと男は笑い声を立てる。


「もう、言い過ぎだってば。私だってモテるのよ」


「まあ、俺は別に構わねーけどな。親父が納得するかは知らねーぞ」


 親父? どういう事だろう話が見えなかった。


「じゃあ、そろそろ行くべ」


「そうね」


 男は急に立ち上がって、車の鍵をポケットから取り出した。


「あの、どこ行くんですか?」


「なんだ? 環から聞いてねーのか。実家に行って親父に挨拶するんだべ?」


 いやそんな話は全く聞いてないのだけど。俺は助けを求めるように環さんを見ると、舌を出して、ごめんね、とウィンクするだけだった。どうやら俺は騙されていたらしい。


 この前、パリに行ったばかりだと言うのに、俺は車に乗せられ、第二の旅に出る事になった。行き先は俺も知らない。俺の未来はまるで印字のないキーボードのように不確かだった。

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