57話 尊師スタイル

「ほら、私も同じキーボード持ってるのよ」


 たまきさんは鞄から、墨色のキーボードを取り出した。俺のとは色が違うけど、確かになにも文字が印字されていない同じやつだ。


「お姉さんとお揃いだね、少年」


 そんな洋服みたいに言われても、ありがたみは感じない。


「ていうか、環さんそれ必要なんですか?」


 環さんのテーブルには既にノートパソコンが置かれていた。当然ながらノートにはキーボードがあらかじめ備わっている。わざわざ他のキーボードを繋げる必要はない。


「ああ、これねこうやって使うのよ」


 環さんはおもむろにノートPCのキーボードの上に例のキーボードを重ねて置いた。キーボードだけやけに出っ張った妙なパソコンが完成する。


「これを尊師スタイルと呼ぶのよ」


「尊師スタイル? 明らかに不自然なんですけど……」


 キーボードにキーボードを重ねるなんて変な方法が定着しているとはとても思えない。俺が詳しくないからって、からかっているんだろう。


「まあこの使い方もこのキーボードの罪深さを物語っているわね。一度知恵の果実を齧ってしまえば、もう裸ではいられなくなるように、一度、このキーボードに触れてしまうと、二度と他のキーボードを使うことができなくなってしまうの」


「俺にはただのキーボードにしか見えませんが」


「あら、人と一緒でキーボードも外見では決まらないのよ」


 どうやらまだキーボードの話が続くらしい。俺は覚悟を決めて、環さんの話を適当に聞き流すことにした。漫画やアニメだったら普通に飛ばすところだ。


「このキーボードには静電容量無接点方式という特殊なキースイッチが使われているの。これがね、抜群の打ち心地を実現しているの。打ちやすいだけでなく、耐久性も高いのよ。それにこの無駄のないキー配列。特にCapsLockキーを追放した功績はでかいわ。それから……」


「あ、もう十分わかりましたから、とにかくすごいキーボードなんですね」


 正直キーボードなんてどれも一緒だよな。要は文字が打てればそれでいいのだ。こだわる意味がわからない。


「まあ、わかってくれればいいの。私が使い方教えたげる」


 環さんはキーボードの起動の仕方やタブレットとの接続方法をレクチャーしてくれる。これで一応入力はできるようになったが、根本的な問題は解決していない。


「キー配列、紙に書いてあげる。でも、タッチタイピングを覚えておいても損はないわよ。他のキーボードでも打てるようになるから」


 環さんは親切にもノートのページを切り取って、そこにキーの並びを書いてくれる。それを見ながらなら、なんとか打てそうだ。まあ、そんなことをするよりスマホの方が早そうだけど。


「これねqwerty配列と言ってね。タイプライターの時代から使われてるのよ。そう考えると、人類ってあんまり進歩してないのね」


 環さんはそう言って紙を渡してくれる。


「ところで、これで何を書くつもりなの? 学校の宿題とか?」


「実は面倒な妹がいましてね……」


 俺はかくかくしかじかと環さんに事情を話した。


「なるほど、可愛い妹の頼みは断れないわけだ。兄も大変だね。私も兄妹いるからわかるよ」


「わかってくれますか。正直、脚本なんて書いたことがないから、途方に暮れてたんです」


「そうか、そうか、脚本ねえ……」


 それから環さんは口元に手を宛てがって、何か思案しているようだった。やがて何か思いついてようで、明るい顔で口を開いた。


「よければ、私が手伝おうか? これでも大学ではナラトロジーを勉強しているんだ。少なくとも、きみよりは上手だと思うよ」


「ナラトロジー?」


「まあわかりやすく言えば、物語を研究する学問かな。まあ、私に任せなさい。ついでにタッチタイピング教えてあげる」


「それは助かります。素人の俺よりよっぽど詳しそうだ」


「その代わりきみも頼まれてよ」


 急に声のトーンが変わる。環さんの鋭い眼光が俺を射抜いた。


「私の恋人になってくれないかな」


「へ?」


 俺は間抜けな声をあげるしかなかった。




 ※注意

 今回の話では静電容量無接点方式のキーボードをさも素晴らしい物のように宣っていますが、これは事実とは大きく異なり、これらの使用を推奨する意図はありません。現在、これらのキーボードには高い依存性があることが知られており、一度でも手を出すと、脳にその快楽が記憶され、他のキーボードでは満足できない体に変わってしまいます。高額な値段も相まって、生活が破綻してしまう中毒者が後を絶ちません。友達から強く勧められたり、有名人も使っているからと誘惑されることもあります。しかし、いかなる理由であっても絶対に購入してはいけません。人生を棒にふることになります。

 大人しくノートパソコンなどに付いているペチペチのキーボードを使うこと強くお勧めします。

 明日も19時頃更新です。またお会いしましょう。⌨️

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