56話 無刻印キーボード
俺は駅前のカフェに陣取り、早速タブレットをケースに付いているスタンドでテーブルに立てた。あとはキーボードを繋ぐだけだ。こんなことをしては目立つかと思ったけど、案外俺以外にもノートPCやタブレットパソコンを机に広げる客が大勢いた。ただどうしてかは知らないが、どの客も揃って林檎マークのパソコンを使っている。
俺は早速、キーボードをスリーブケースから取り出した。そのキーボードを見て、思わず声が出る。
「……なんだこれ?」
そのキーボードは真っ白だった。いや、単に色が白いというだけではない。実際、左右のキーの一部はグレーに配色されてもいる。だが、そんなことより問題なのは、キーに何も印字されていないことだ。本来なら、キーの頂点にアルファベットとかひらがなが書いてあるはずなのに、それはピアノの鍵盤みたいにまっさらだった。ちなみに右側にあるはずのエンターキーも俺が知っているような形をしていない。というか、どれがエンターキーなのかさえわからなかった。
「どうやって使うんだよ、こんなの」
普段からキーボードを使っているわけじゃない俺には、どこになんのキーがあるのかさっぱりわからない。たとえこれをタブレットに繋げたところで、まともに文章が打てないだろう。使おうにも、これでは暗闇でタイピングするようなものだ。
俺は念のため、他の人が使っているパソコンを覗き込んでみたが、どのキーボードにもちゃんと文字が刻印されている。やっぱり俺が間違っているわけではなく、このキーボードが変なのだ。
俺はもう一度キーボードをよくよく観察してみる。どうやら親父が使いすぎて印字が擦れて消えたわけじゃなく、印字がないのは元々の仕様らしい。一体誰がこんなことをおかしなことを思いついたのだろう。これで小説を書いていた親父も頭がどうかしている。
「母さんめ、知ってて渡しやがったな」
何か裏があるとは思っていたが、とんだ嫌がらせもいいところだ。これじゃあ、ラブストーリーどころじゃない。
「ねえ、きみ。面白いの使ってるね」
「え?」
声をかけて来たのは隣の席に座るお姉さんだった。艶やかな長い黒髪に、黒縁のメガネが似合う美人な人だった。体のラインを強調するノースリーブのニットに、タイトスカートから伸びる細長い足は黒のストッキングに包まれている。正直、かなり俺のタイプだった。若そうだけど、社会人だろうか。
「ああ、急に話しかけてごめんね。きみ、高校生? 若そうなのにそんなキーボード使ってるから、ちょっと気になってね」
「このキーボード知ってるんですか?」
「見ればすぐわかるよ。ていうか吊るしで無刻印モデル出してるのは、そこくらいじゃないかな。それ値段知ってる?」
「高いんですか?」
「新品だと三万五千円くらいだね。高校生がバイトするにしても、わざわざそんなの買わないでしょう?」
「……そんなにするんですか、これ」
今すぐリサイクルショップで売り払いたくなる。いや、これも一応親父の形見だし、止めておこう。こんなものにばかり金を使っているから、新しい時計が買えなかったんだろうな。
「これは親父のなんです。使おうと思って持って来たけど、なんも書いてないから困ってしまって」
「確かに初心者には無刻印は酷だよね。でも、タッチタイピングを覚えれば、そんなに不便でもないのよ」
そうか、パソコンが得意な人はキーボードを見ないで打つからあまり関係ないのか。それにしたって文字が書いてあったって別に困らないだろうに。
「きみのお父さんの職業、当ててあげようか?」
「キーボードだけでわかるんですか? 確かにこれで仕事してましたけど」
「ズバリ、システムエンジニアか、プログラマーでしょう。どう?」
「いや、全然違います」
「あちゃー、外したか。正解は?」
「作家です。小説を書いていて……」
お姉さんはそれを聞いて身を乗り出してくる。
「本当? 私結構本読むから知ってるかも。ペンネームは?」
「高槻晋作です。ていうか本名ですけど」
「嘘、晋作? 私、中学の時、一通り読んだわ。ていうか、今でも本棚に置いてある。こんなところで、その息子さんに会うとは思わなかった」
俺もこんなところで親父のファンに会うとは思わなかった。親父の小説を読んでくれているのは素直に嬉しかった。
「これは運命だね、少年。私、松中
「高槻悠太です。高二です。運命、ではないと思いますけど」
環さんとの些細な出会いが、とんでもない騒動に発展するなんてこの時の俺は知りもしない。親父の持ち物に反応するような女性にはもっと注意を払うべきだったのだ。だがそれも仕方ない、ラブストーリーはいつだって突然始まってしまうものなんだから。
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